ガリレオ・ガリレイはヴェネツィアのサン・マルコ鐘楼から「カンノン(*)」を披露
(*)翻訳者注:ヴェネツィア方言での望遠鏡
木材、象牙、骨、革、羊皮紙などで最初は軍事の目的のために作られ、その後は天空を観察するために使われました。そのようにして、宇宙の歴史に革命をもたらった重要な情報を私たちが分かるようにできました。それは望遠鏡です。この機器は眼鏡の発見に付いてきて、その父性はヴェネツィアであり、ここで製造され輸出され、大成功を収めました。
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(*)翻訳者注:ヴェネツィア方言での望遠鏡
木材、象牙、骨、革、羊皮紙などで最初は軍事の目的のために作られ、その後は天空を観察するために使われました。そのようにして、宇宙の歴史に革命をもたらった重要な情報を私たちが分かるようにできました。それは望遠鏡です。この機器は眼鏡の発見に付いてきて、その父性はヴェネツィアであり、ここで製造され輸出され、大成功を収めました。
55年間経ちましたが、その記憶はまだ生々しく、傷もまだ痛むのです。1966年11月4日にヴェネツィアは荒れたアドリア海からほぼ完全に水没されました。その日に、フィレンゼに山崩れからアルノ川の洪水まで、例外的な天候によりイタリア全国に甚大な水文地質学的被害をもたらしました。ヴェネツィアに水位はそんなに高く、同じようなエピソードの記憶はありません。
焼き栗やワインの匂い、鍋のふたに叩く木製スプーンの音やドラムみたいなアルミ缶。ヴェネツィアの最も高級のパン屋とパティセリのショーウインドーはカラフルなサン・マルティーノのお菓子を展示します。サン・マルティーノのお菓子はサクサクする生地で作られ、様々なサイズを持っているビスケットです。このビスケットは馬に乗りながら剣を持っているマルティーノ聖人の伝統的な形にされ、アイシング、キャンディー、チョコレートマの金銭、そして「スパッカデンティ(折り歯)」と呼ばれる典型的な銀色の小さいボールでデコレーションされています。
呪い、死刑囚の血、自家製の恋愛の魔法薬。中世のキリスト教の異端審問による、その儀式を施した女性は魔女、占い師と考えられました。その儀式を認められていなかったため、その女性たちは刑罰として耳の切断、鞭打ち、都市からの追放などの拷問を受けました。
しかし、ヴェネツィアで魔女は火あぶりの刑に処せられなかったのです。このようなことに関しても、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」はキリスト教の異端審問より公正を表しました。
集合的記憶に残った電車。そして、無名兵士の亡骸の片道の旅。その電車はアクイレイアからローマまで120駅に停車し、全ての人は電車に乗せられた無名兵士に敬意を表して帽子を脱ぎ、花を投げることができるように、非常に低速で通過しました。第一次世界大戦で650万人以上の死者や不明者を思いだすための象徴的な旅。
柳のように、枝の先端が地面に触るから「泣きブナの木」と呼ばれています。約2世紀にわたり、古いブナの木はサン・ミケーレ島の死者を見守っています。
ヴェネツィアでは、女性であることはずっと差別要素ではなかった。421年の建国から1600年記念を祝い、ラグーナに位置するこの都市は包括、技術、商業、製造、男女平等、女性の自由などの多面から見るとずっと前衛的な共和国だった。男女平等と女性の自由といったこの二つの要素は、セレニッシマ共和国であったヴェネツィアにずっと日常生活の基本的なものだった。
霧に包まれる時、サン・ジョルジョ島の欄干から、またはもっとも撮影されたリアルト橋からの観点。このようなモノクロの写真を通じてヴェネツィアを観光することができる。ヴェネツィアを語るいくつかの歴史的な瞬間は、特殊な展示会に集められた。詳しく、ヴェネツィアの歴史的な瞬間を写す50枚のポスターはこの日々に町中に貼っている。このポスターはQRコードもあり、それのおかげで普通の観客でも写真家になれる。
毎年の11月21日に、ヴェネツィア人はマドンナ(聖母マリア)に供物のキャンドルを持っていくために長く、ゆっくりで道順に進み、風が吹いても、雨や雪降っても、自分の家族を守ってくれることを願います。
(*)翻訳者注:ブラーノ島に生まれ、伝統的になったビスケットです。
ドガナ・ダ・マル(*)はカナル・グランデとジュデッカ運河の間に位置し、芸術と建築の宝庫として表現する土の先端で、何世紀にもわたりヴェネツィア共和国の「セレニッシマ」の経済的活動の中心であった場所です。
(*)翻訳者注:ドガナ・ダ・マルとはヴェネツィア方言で「海の税関」という意味します。
1300年に匿名の料理人が「チサメ・デ・ペッセ」(甘酸っぱい魚類)というレシピを書きましたが、それは現在の有名なサルデ・イン・サオル(翻訳者注:玉ねぎに覆われた揚げイワシ)の前身ようです。このレシピを含んでいる本のタイトルは『匿名のヴェネツィア人』です。1899年に出版されたこの本は、ボローニャ大学図書館の管理者のルドヴィーコ・フラティから発見されました。その本の中で、香辛料がメインされた130以上のレシピに通じて、中世のヴェネツィアの料理は語られています。
デゥカーレ宮殿にあるヴィチェンティーノの絵画に描かれたヴェネツィア海軍の勝利
ヴィチェンティーノの絵画は一見すると、秩序がないように見えますが、実際は、よく考えられた構成になっています。今からちょうど450年前、1571年10月7日のレパント海戦は、ヴェネツィアにとって、海軍がこれまでにない勝利を納めた戦いでした。今年の10月7日に行われるヴェネツィア建国1600年記念のために、様々なイベントでも、この勝利の想いを馳せることができます。
スパイスとは、食べたり、香りづけをしたりするためだけのものではなく、過去には香水や治療法としても使われていました。ヴェネツィアがセレニッシマ共和国だった時代、香辛料貿易は最も重要な収入源でした。実際に、何世紀にもわたり、ヴェネツィア共和国はこの貿易を独占していました。主要な港に寄港地や植民地が多くあったアジアから輸入し、ヨーロッパに再輸出しました。
(*)カンピエッリとはヴェネツィア方言で小さな広場を意味する。
ヴェネツィアには、その呼称に大きな誤りがある場所があります。カステッロ地区にあるサンタ・ジュスティーナ広場(ヴェネツィア方言で、広場は「カンポ」と呼ばれる)です。
彼は1431年4月25日に、かつてヴェネツィア共和国の街であったカンディアから、68人の乗組員と一緒に、コッカ・クエリ―ナという船でフランドルへ向かって出発しました。船内に持ち込んだワイン、胡椒、生姜などのヴェネツィア共和国の貴重な品物を、フランドルの布と交換するつもりでした。しかし、布の代わりに、北海の漁師たちからもらったストックフィッシュ(干し鱈)という干し魚をドージェに持ち帰りました。それは何世紀にもわたり、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の全領土やヴェネツィアで最も美味しい料理のひとつとなったのです。
ヴェネツィアの歴史が始まったと考えているのは、伝統的に3月25日です。そして、2021年の3月25日に「ヴェネツィア1600」というプロジェクトが生まれました。
イタリア全土にみられるように、ヴェネツィアにも日本食のレストランが多くある。しかし、日本食には種々な種類の料理があるにもかかわらず、ほぼお寿司しかメニューにないということは事実だ。
ヴェネツィア映画祭の様々なエディションでレッドカーペットを歩いた有名人、カナル・グランデに飛び込む子供たち、1966年11月4日の洪水、ヴェネツィアの橋から橋へ歩いたトニ・サーカスの象などは、多面的なヴェネツィアのほんの一部である。これらは30万枚以上の貴重なネガの形で、カメラフォト・エポケというアーカイブに残され、過去の箱に保管されている。1946年から1987年まで、40年間のヴェネツィアの歴史を写真が語っているのだ。その本物の宝物を管理している人は、ヴィットリオ・パヴァン氏である。
ヴェネツィアは、本土と海洋の間にある大きなラグーナにある120の島々で構成されています。元々はヴェネツィアの領土に杭打ちの建物があり、漁業や製塩業で生活していたイリュリア(*)やヴェネトの人々が住んでいました。
カ・ペーザロ、建物の歴史 ヴェネツィアの東洋美術館はカ・ペーザロ宮殿の4階に位置しています。カ・ペーザロ宮殿は17世紀後半、裕福なペーザロ家の依頼により建てられました。
ジュデッカ島をヴェネツィア本島と分ける運河に面し、プンタ・デラ・ドガ―ナに向かって建つこの施設は「ツィテッレ」という名前で知られており、ヴェネツィア方言で若い女性という意味です。
9月5日の日曜日にヴェネツィアの歴史あるレガッタが戻ってきます。このイベントは最も古いイベントのひとつで、今年はヴェネツィア建国1600年を記念して、さらに重要なイベントになります。
昔は漁師の間にも競争がありました。実際に、毎日夜に仕事を終えた後、特徴的な"voga alla veneta"(漕ぎ手が船首、つまり進行方向を向いて漕ぐこと)のために準備した船で、獲れた魚とともにリアルト市場に向き、一番のりになるために競争しました。なぜかというとリアルト市場に早く到着できれば、最高価格で漁獲を売買できる可能性があったからです。
アルド・マヌーツィオとともに、ヴェネツィアで「近代 」の本が生まれた。
ヴェネツィア、2021年6月22日 ― 壁の向こうには緑とブドウ畑、そしてラグーンを迷う視線。一番感動するのは、その静寂である。
2021年6月24日、ヴェネツィア― 方言でありますが、何世紀にもわたって言語であった。現在でも使われている多くの言葉がイタリア語になった。ヴェネト出身の言語学者で、ローザンヌ大学でイタリア語史とロマンス言語学の教授を務めるロレンツォ・トマシン氏は、ヴェネト州の言語史やイタリア人作家についての著書や論文を多数発表している。
ヴェネツィアの象徴であるアルセナーレは、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の海軍力の作品やシンボルです。今日は、海軍の所在地であり、過去2年間は国内および国際的なレベルでボートに特化したイベントの会場でもありました。
2020年4月29日、日本政府は令和23年春の外国人叙勲を発表しました。イタリアの「旭日中綬章」はボナヴェントゥーラ・ルペルティ教授に贈られました。
ヴェネツィアで行われる大事な祭りの一つは「サン・ロッコ祭」(ロッコ聖人の祭)です。毎年、8月16日に行列やカトリックのミサがあります。
知られざるパルマ・イル・ジョーヴァネの絵画を隠し持つ宝箱
それを見たいと思ったら、それを探さなければならない。見つけた後はいつも驚きの表現が出る。ヴェネツィアの方言で「螺旋階段」という意味を持つ「スカラ・デル・ボヴォロ」は狭い通りの中に「引っ掛かかる」ように位置している。そのインパクトは息を吞むほどで、ヴェネツィアで人々に愛される場所の一つである。
ヴェネツィアでは1577年から毎年、仮設の通路が運河の上にかけられます。有名な祭りのシンボルであるレデントーレ教会に、人々が徒歩で行けるようにするためです。 レデントーレ教会に行くために、ジュデッカの運河を徒歩で渡ることが出来るこの橋の通路は、16世紀からヴェネツィア人にとって、現在も宗教的にも、そして社会的にも大事な価値を持っています。
「レデントーレ」という祭りはヴェネツィア人にとって一番大事なものです。
この祭りの由来は1577年です。わずか2年間にひどい疫病のせいでヴェネツィアの人口の3分の1以上、すなわち5万人が死亡しました。その疫病の終息への感謝のしるしとして、この祭りを行います。
ヴェネツィアにあるフランコ・"ノノ"・コルッシというお菓子屋で技術を学んだ緒方フランチェスカ江里さん、小樽でヴェネツィア洋菓子店開業