ツィテッレの物語:売春に陥る危険から救われ、貴族のメンバーになったたヴェネツィアの女性たち

24 September 2021

 

2021年8月3日、ヴェネツィア ー ジュデッカ島をヴェネツィア本島と分ける運河に面し、プンタ・デラ・ドガ―ナに向かって建つこの施設は「ツィテッレ」という名前で知られており、ヴェネツィア方言で若い女性という意味です。そこに住んでいる女性たちは貧困で売春に陥る危険性から救われました。この施設は16世紀ヴェネツィアの病院建築のひとつであり、サンタ・マリア・デッラ・プレンゼンタツィオーネ教会も、これに含まれます。

ツィテッレの施設は貧しく美しいヴェネツィアの女性に、別のチャンスを与える目的から生まれてきました。彼女たちは貧しく美しかったからこそ、売春に陥る可能性が高かったのです。ジュデッカ島にあるこの福祉施設は1561年に総主教ジョヴァンニ・トレヴィザンの意志で建設され、そこに住んでいた”ツィテッレ”は非常に若く、貧しく、そして美しかったのです。この教育施設での滞在の目的は、彼女たちが最終的には貴族の女性になることを達成することでした。

売春に陥ったあらゆる年齢の女性のためのリハビリセンターであったサン・ジョッベのペニテンティという施設と異なり、ツィテッレに入るために、美しく、貧しく、12歳から18歳までの女性である必要がありました。その2つの施設では生活水準も異なっていました。ジュデッカ島のツィテッレの施設には、将来、有力な男性の妻となるべき女性が入ったため、生活水準は高かった一方で、サン・ジョッベの施設には売春婦にもう一度チャンスを与えるだけが目的だったため、生活水準は低かったです。

「ツィテッレの施設に入るためには美人であることが必要で、『醜い』女性は入れませんでした。売春に陥る可能性があった女性に良い未来を与えるために、その女性たちは司祭から推薦され、制定した法令に従って知事たちから選ばれたのです」。ヴェネツィアの公的支援機関であるIPAVのアガタ・ブルセガンが、このように語っています。

ツィテッレに提供されたのは心理的・教育的な道でした。ツィテッレは1561年に設立され、17世紀にはこの施設を創立した貴族たちと同じように、華々しい施設だと思われていました。そのなかでも、初期に創立に関わった貴族のアドリアーナ・コンタリニは、自分の財産を全てツィテッレにいた女性たちに与えました。ツィテッレに入ったあと、女性たちは最下層から礼儀作法を身につけ、レース作りといった貴族女性の工芸を学ぶことで社会階層の頂点に達することができました。

1583年に施設にいた女性の人数が200人に達しましたが、施設の中で女性たちは外界との関係がなく、年に一度だけにヴェネツィアの島々への船でわたることが許されました。あるいは、重要な男性に妻の候補として選ばれた場合にも、施設から時々外出することが許されていました。

「施設での隔離は毎年ヒステリーや神経症の色々なケースを引き起こしました。そのほか、そこにいた皆が若く、美しく、そして完璧な結婚を探し求めていた女性たちでしたので、お互いのライバル関係が酷かったです。」とブルセガンが続けて話しています。

この施設には入った女性で一生そこに残る人は、一人もいなかったのです。この施設のおかげでは、問題のある思春期を過ごした女性が、売春をするかもしれない貧しい女性としての生活ではなく、立派な貴族の美しい女性としての生活を迎えることができました。

現在はジュデッカ島にあるツィテッレ施設はオラトリオ・デイ・クロシフェリペニテンティ教会オスペダレットスカラ・コンタリーニ・デル・ボヴォーロとともに、「ヴェネツィアの5つの隠された宝石」と呼ばれています。

 

スカラ・コンタリーニ・デル・ボヴォーロについて更に読むには:
隠されたヴェネツィアの宝石: スカラ・コンタリーニ・デル・ボヴォロ

オラトリオ・デイ・クロシフェリについて更に読むには:
オラトリオ・ディ・クロチフェリ聖堂 知られざるパルマ・イル・ジョーヴァネの絵画を隠し持つ宝箱