ヴェネツィアの歴史:建国から現在へ

5 October 2021

ヴェネツィアは、本土と海洋の間にある大きなラグーナにある120の島々で構成されています。元々はヴェネツィアの領土に杭打ちの建物があり、漁業や製塩業で生活していたイリュリア(*)やヴェネトの人々が住んでいました。
(*) イリュリアはバルカン半島のアドリア海側に面する領域です。

 

建国からビザンチン帝国まで

ヴェネト人は、ゴート族やロンゴバルド族に追放され、ポー川の河口の湿地に避難し、ヴェネツィアを建国しました。

湿地と水の滞留地の間にあるという有利な立地が、ヴェネツィアを想定される敵の攻撃から守りました。実際に810年、カール大帝の息子は湿地を航行できなったため、艦隊の退却を命じました。

6世紀、ユスティニアヌス一世の時に、将軍ベリサリウスがヴェネツィアを制覇しました。そのため、ビザンチン帝国の保護のもと、ヴェネツィアはラヴェンナ総督がヴェネツィアによって統治されました。

ラヴェンナ総督が弱体化しているのを利用して、697年にヴェネツィアの貴族たちは初代のドージェ(*)パオロ・ルチオ・アナフェストを任命しました。しかし、ビザンチン帝国に、より強い権力が認められていました。また、ドージェという地位は最初は世襲でしたが、貴族の中の権力争いが頻発したため、選挙により決められようになりました。
(*) ドージェ: イタリア語でのヴェネツィア共和国の元首

8世紀末、弱体化したロンゴバルドに代わって、シャルルマーニュがイタリア国内を支配するようになりました。そのため、強力なカール大帝と密接な貿易関係があったビザンチン帝国とも、​ヴェネツィアは​折り合う必要がありました。これにより、ヴェネツィアは困難な時期を迎えることになるのです。

カール大帝はヴェネツィアを征服することに失敗し、アーヘンの和約(812年)では、ヴェネツィアはビザンチン帝国の支配下にあることが確認されました。しかし、ビザンチン帝国の完全な消滅に至るまでに、ヴェネツィアは、だんだんと、支配下にある都市という立場から、貿易の協力者という立場に変わっていきました。

当時のドージェのアグネロ・パルテチパツィオによって、ドージェの所在地はマラモッコからリアルトへと移動し、これによりヴェネツィアの島々の政府が、新しい中心地に成立しました。その新しい中心地から「リアルト文明」が生まれ、13世紀になってから、より広く知られている「ヴェネツィア」という名前で呼ばれることになりました。

829年には、ヴェネツィア共和国の守護聖人となる聖人マルコの亡骸が、アフリカのアレキサンドリアからヴェネツィアに到着しました。

976年の大火災では、ドゥカーレ宮殿、公文書館、従前のサン・マルコ教会も含め、ヴェネツィアの中心地が破壊されました。

ヴェネツィアとビザンティウム

ビザンティウムとの密接な関係により、ヴェネツィアは海上交通・商業の発展を拡大することができました。実際、ビザンティウムにいたヴェネツィア大使は、多大な特権を持っていました。

コンスタンティノープル(古代ビザンティウム)やアレキサンドリアとの絹や香辛料の交易、そして、魚、織物、木材や鉄の輸送で、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の経済力は非常に大きくなりました。ヴェネツィア経済にとって、最も生産性が高い商業活動の一つが、北アフリカでの人身売買でした。南ロシアで奴隷を買い、北アフリカで売るというやり方でした。

1000年にヴェネツィアは、ネレトヴァ人(中世初期にダルマチア地方南部に定住したスラブ系の人々)とクロアチア人に打ち勝ちました。そして、ダルマチアへ進行したドージェのピエトロ・オルセオロ2世が、東方支配と貿易を中心とする政策を決定的なものとしました。ヴェネツィアのドージェが、ダルマチア公爵となったこの出来事を記念するために現在も毎年行われのが「センサ祭り」です。これはヴェネツィアの祭りの中で最も荘厳なものです。

また、十字軍遠征という大きな出来事を前にして、当初ヴェネツィアは傍観していました。しかし、その後、ジェノバやピサなど、他の海洋共和国が東方への影響力を拡大するにつれ、ヴェネツィアも参戦しないわけにはいかないということが分かりました。

1204年、4回目の十字軍聖戦により、ヴェネツィアの黄金期ともいえる時代が始まりました。当時のドージェ・エンリコ・ダンドロの偉業のおかげで、コンスタンティノープル軍に打ち勝ち、ギリシャ帝国はヴェネツィアとその同盟国に分割されました。この功績によって、世界中で最も有名なヴェネツィア人のひとりであるマルコ・ポーロの時代に、ヴェネツィアは最盛期を迎えました

この最盛期を象徴するのが、1284年にドゥカートというヴェネツィア通貨を鋳造したことです。この通貨は3世紀にわたって、フィオリーノというフィレンツェ通貨と共に、当時、世界で最も重要な通貨の一つでした。

ヴェネツィア共和国

その後、イタリア半島の他の都市国家には存在していなかった共和国というものが、ヴェネツィアに初めて成立しました。

この新しい共和国の組織は、その初期から、ヴェネツィア共和国がドージェひとりに権力が集中するような全体主義に陥らないように努めました。なぜかというと、貴族たちは同じコミュニティーにあった他のメンバーから支配されたくないと考えていたからです。特に、彼らの経済的利益にならない場合はなおさらです。このような理由から、「ドージェの約束」が制定され、ドージェは就任の時にそれを受け入れる必要がありました。

実際にドージェは、制度的な役割を果たしたわけではなく、実権を握ったのは大評議会でした。1297年以降、評議会のメンバーは選挙ではなく、相続によるようになりました。そのため、ヴェネツィア共和国の統治は家系による寡頭制になりました。

15世紀前半、ミラノ公爵による占領の脅威から身を守るため、ヴェネツィア人はイタリア半島の他の領地に進出し始めました。

1410年、ヴェネツィア共和国は現在のヴェネト州にあたる地域の大部分や、ヴェローナやパドヴァなどの都市も支配し、その後は現在のロンバルディア州にあるブレシャやベルガモも占領しました。アドリア海は「ヴェネツィアの海」になり、その力はキプロスといった遠い場所まで及びました。

15世紀のヴェネツィアには20万以上の人口があり、世界の貿易の中心地かつ、世界最大の港湾都市になりました。この時代にヴェネツィアは最盛期を迎えたのです。そして、その宮殿たちは日に日に豪華になっていき、ヴェロネーゼやジョルジョーネなどの芸術家によって装飾されました。まさに、ヴェネツィアが一番の輝きに達した時代です。

ヴェネツィアの衰退

コンスタンティノープルの征服がヴェネツィアの歴史の頂点だとしたら、逆に1453年にトルコ人の攻撃よりそれを失ったことはヴェネツィアの急激な衰退の始まりになりました。それに加え、アメリカ大陸の発見により、国際的商業活動による利益も地政学的に変化してしまいました。

オスマン帝国が、バルカン半島に沿って拡大することに成功すると、オスマン帝国はヴェネツィアの深刻な脅威となりました。実際、1570年にトルコ人の占領によりキプロスを放棄せざるを得なくなり、その後はエーゲ海にあった領土もクレタ島も陥落してしまいました。そして、1573年にはヴェネツィアはオスマン帝国との平和条約締結を余儀なくされました。

1630年のペスト流行でヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の人口3分の1が死亡し、ヴェネツィアの衰退は誰の目にも明らかになりました。ハプスブルク家は、ヴェネツィアの勢力を蝕むためにトリエステ港を拡張しました。また、「ヴェネツィアの陰謀」の後、さらにナポリも「セレニッシマ」を征服しようとしたのです。

征服された地となってしまったヴェネツィア

18世紀、かつての姿を失ったヴェネツィアは、チュニス(現チュニジアの首都)の征服を通して、過去の威信を取り戻そうとしました。しかし、その後すぐに、フランス革命によって、フランスとオーストリアがヴェネツィアの領土をめぐって争うようになりました。

1797年、ナポレオン・ボナパルトはヴェネツィアとの同盟を提案しましたが、ヴェネツィアは拒否すると決めました。その拒否に対し、ナポレオンは復讐をすることにしたのです。ヴェネツィア共和国の13年間の独立がここで終わりを告げました。ナポレオンはドージェの華麗な黄金の船「ブチントーロ」を略奪し、フランスへと送り、他の金品も全て持ち去りました。

ドージェのルドヴィコ・マニンと大評議会のメンバーは退位し、新しい市政が敷かれ、領内にフランス人の在住を認めることになりました。ナポレオンが招集した1801年のリオン会議により、ナポレオンを大統領とするチサルピーナ共和国がイタリアに成立しました。その後1804年に、ナポレオンはフランス皇帝への即位宣言をし、イタリア王になりました。

1797年10月18日にカンポフォルミオ条約の締結で、ヴェネツィアはオーストリアに割譲されました。イタリア半島はナポレオン支配により、政治的に初めて統一されることになったのです。そして、オーストリアを「外国」として扱い、強い愛国心が生まれました。新しいオーストリアとの衝突が続き、最終的にナポレオンはヴェネツィアから退去せざるを得なくりました。

1805年のプレスブルグの和約で、ヴェネツィアはイタリアの一部になり、ウイーン会議により、フランス革命以前の地政学的な体制に戻すことに決まりました。最初にヴェネツィアはオーストリア支配下のロンバルド・ヴェネト王国の一部でしたが、やがてロンバルディアはイタリア王国に属することを選択したため、ヴェネツィアはロンバルディアから分離しました。

オーストリアとの衝突後に行われた会議では、ヴェネツィアがイタリアに併合されることが決まりました。オーストリア軍はヴェネツィアを深刻に破壊したので、ヴェネツィアは1849年8月22日に降伏しました。

これにより、一気にオーストリアとイタリアの戦争へと発展していきました。公爵、ローマ教皇、ナポリ王はヴェネツィア領土を征服するために、軍を送り込み、オーストリアはプロイセン、ロシアと「神聖同盟」を結びました。

1866年のウイーン条約により、イタリアとオーストリア間の和平が回復し、オーストリアは賠償金と引き換えにヴェネツィアを譲り渡しました。1866年10月19日、ヴェネツィア条約が締結され、ヴェネツィアはオーストリアからフランスに、その後はフランスからイタリアに譲られました。そして、同じ年国民投票により、ヴェネツィアはイタリアの一部になりました。

イタリアの統一から今日まで

1893年4月19日にヴェネツィアの市長、リッカルド・セルヴァティコは2年に1度の美術展を開催することを決定し、1895年に4月30日には第一回のヴェネツィア・ビエンナーレ(国際美術展)が開催されました。これは、文化に関するイベントとして国際的に最も重要なものの一つになりました。

戦後、ヴェネツィア本土に大規模な建築物が建てられ、その範囲が拡張されました。そして同時期に、多くの人口がヴェネツィアの歴史的中心地区(チェントロ・ストリコ)から流出したのです。1966年の洪水でヴェネツィアに多くあった一階建て住宅の弱点や危険性が明らかになりました。そして、ヴェネツィア本土にあるメストレは1960年から強い人口増加がみられました。1970年9月11日、ヴェネツィアの中心地が藤田スケールでF4の強風に襲われ、多くの被害をもたらし、21人が亡くなりました。

現在のヴェネツィアは、美術や建築のビエンナーレ、映画祭、カ・フォスカリ大学といった有名な大学のおかげで、イタリアの第三次産業と文化の中心地という役割を果たしています。それにもかかわらず、「セレニッシマ」はマスツーリズムの悪影響やラグーンでの住みづらさという理由により、歴史的中心地区から本土への移動が止まりません。

 

参考資料やサイト
Storia di Venezia - Presente, passato e futuro di Venezia

・Giulio Lorenzetti, “Venezia e il suo estuario. Guida storica e artistica”, Edizioni Lint Trieste, 1963 (1985)