1571年10月7日、450年前のレパント海戦 デゥカーレ宮殿にあるヴィチェンティーノの絵画に描かれたヴェネツィア海軍の勝利

2 November 2021

デゥカーレ宮殿にあるヴィチェンティーノの絵画に描かれたヴェネツィア海軍の勝利

ヴィチェンティーノの絵画は一見すると、秩序がないように見えますが、実際は、よく考えられた構成になっています。今からちょうど450年前、1571年10月7日のレパント海戦は、ヴェネツィアにとって、海軍がこれまでにない勝利を納めた戦いでした。今年の10月7日に行われるヴェネツィア建国1600年記念のために、様々なイベントでも、この勝利の想いを馳せることができます。

この勝利の重要性を理解するために、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の中心であったドージェ(*)、そして政治機構の本部であったデゥカーレ宮殿のサラ(*)・デロ・スクルティニオをみてみる必要があります。建物の2階に位置するこの非常に広い部屋の壁にかけられた絵画に809年から1656年までのヴェネツィアの全ての勝利が描かれており、そのうちレパント海戦の絵画は最も大きく重要なのです。それはアンドレア・ヴィチェンティーノの作品で、彼はサインをしたにもかかわらず、日付を書くことを忘れていました。しかし、ティントレットの同名の絵画がデゥカーレ宮殿の火災で失われた1577年後に、この絵画が描かれたのは確かなことです。
(*)翻訳者注:ドージエとはイタリア語でのヴェネツィア共和国の元首
サラとはイタリア語で部屋という意味します

この作品では、オスマン帝国軍の服装や武器と、同盟軍のそれとは違いがある。同盟軍の提督たちは、冷静で無関心に見える態度で、船尾に立っています。この海戦の主人公で、その後ドージェになったセバスティアノ・ヴェニエルは、彼の使用人と一緒に描かれています。

フィリップ2世の異母兄弟で、スペインの司令官であったドン・ジョヴァンニ・ダウストリアはこの絵画の右端に描かれています。そして、教皇庁艦隊司令官マルカントニオ・コロンナは、神聖同盟旗の後ろ、教皇のガレー船の船尾に立っています。右端から入って来る三隻のガレア船に対して、トルコのアリ・パシャ提督が指揮する三隻のガレー船が左端に並びます。 二隻の船の衝突は激しく、トルコ人の見張りたちが船から海に投げ落とされてしまうほどです。絵の下端には戦闘のシーンが描かれており、格闘の厳しさ、残酷さ、敗者の苦しみ、そして彼らの勇気と抵抗の意志を、見るものに感じさせます。一人一人の戦いが、当時の世界の覇権争いを反映しているのです。

この絵を描くために、アンドレア・ヴィチェンティーノは多くの本を読み、当時の様子を視覚的に再現するを研究をしました。そのため、まさに歴史が語る通りのことを、彼の作品の中に見ることができます。1570年にヴェネツィアは地中海の支配者という立場を失いつつあり、オスマン帝国はキプロス島に狙いを定め、武力で上陸しました。ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」は教皇ピウス5世の支援を求め、翌年、神聖同盟が発足しましたが、トルコ軍に抵抗すると決めたのは勇敢なマルカントニオ・ブラガディンに率いるファマゴスタという街だけでした。しかし、ブラガディンはその直後に、敵から残酷な拷問で殺されてしまったのです。

1571年9月16日、この知らせを受けた神聖同盟の艦隊は、シチリア島のメッシーナに上陸します。海上には数百隻ものガレア船、船、小部隊があり、そこに3万人の兵士と5万人の水兵や漕ぎ手が乗っていました。ほとんどの艦隊、つまり100隻以上の船がヴェネツィアから提供されました。10月6日、トルコ提督は、同じ数の船を引き連れて、レパント港から出港しました。神聖同盟はヴェネツィアガレアの6隻を投入し、アルセナーレ(ドック)で、貨物船を強力な戦艦に改造しました。10月7日、両方の艦隊はお互いにゆっくり近づきます。そして、神聖同盟のガレア船はトルコ軍に大打撃を与え、トルコ軍は多くの民兵を失いました。その直後に、両艦隊の提督の接触があり、お互いの船に乗り込み始めました。敵の船は海岸へ押し出され、打ち上げられ、または沈没させられるためトルコ兵は逃げるために海に飛び込みはじめました。彼らの混乱の後、大虐殺になりました。それは、大きな勝利でした。敵のガレア船13隻を捕獲、90隻の沈没または突き当たらせ、3800人の捕虜という結果です。しかし、死者7650人、負傷者7800人と、神聖同盟の損失もまた大きいものでした。敵は壊滅的に倒されました。神聖同盟は、もう敵を追いかけないことにして、その後に解散しました。

その勝利は、象徴的な価値があり、感情的なインパクトを与えました。トルコ艦隊が再度海戦に復帰するようになるまでには長い時間がかかりましたので、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」はあと1世紀の間、地中海の優位を保つことができました。この海戦を船舶技術の視点からみれば、手漕ぎの船で行われた中世的な海戦の最後のものだと考えられます。