彼は1431年4月25日に、かつてヴェネツィア共和国の街であったカンディアから、68人の乗組員と一緒に、コッカ・クエリ―ナという船でフランドルへ向かって出発しました。船内に持ち込んだワイン、胡椒、生姜などのヴェネツィア共和国の貴重な品物を、フランドルの布と交換するつもりでした。しかし、布の代わりに、北海の漁師たちからもらったストックフィッシュ(干し鱈)という干し魚をドージェに持ち帰りました。それは何世紀にもわたり、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の全領土やヴェネツィアで最も美味しい料理のひとつとなったのです。
ピエトロ・クエリーニは、セレニッシマ共和国の最も象徴的な人物の一人で、船で遭難した経験を、料理での成功に変えました。このストーリーは「ピエトロ・クエリーニ、ドージェ(*)・フランチェスコ・フォスカリにバッカラ(干し鱈)を紹介する」というビデオで語られています。
(*)翻訳者注:イタリア語でのヴェネツィア共和国の元首
なお、このビデオは、ヴェネツィア生誕1600年記念として、年末までオンラインで公開されています。ビデオは、1431年から1433年の間のセレニッシマ共和国の歴史の一部を語るヴェネツィア方言での演劇です。この歴史的な出来事は、クエリー二がドージェ・フォスカリに提出した報告書、船上の評議員と書記であったクリストフォロ・フィオラヴァンティとニコロ・デ・ミキエルの日記に基づいて再現されいます。
カンディアの貴族だったクエリーニは、セレニッシマ共和国のために、その領土をを管理し、そこで生産されるマルヴァジアワインを、貴重な貿易品として利用していました。残念ながら、出航の1カ月後、コッカ号はジブラルタル海峡で岩に衝突し、様々な波乱、嵐、豪雨の後、生き残っていた乗組員はコッカ号を放棄せざるを得ませんでした。そして、老朽化していた救命ボートに乗り込み、疲労、飢え、渇きで力尽きていた船員とともに、クエリーニはサンドーヤ(現在のノルウェー)の岩に上陸、そこで避難場所とわずかな食べ物を手に入れることができました。そして、北極圏の上に位置するノルウェーのロフォーテン諸島のロースト島の住民たちが、ピエトロ・クエリーニと生き残った乗組員を歓迎してくれたのです。出航日の1433年1月25日には、クエリー二たちにバッカラ(干し鱈)を贈ってくれました。ピエトロ・クエリーニはそのバッカラを、ドージェ・フランチェスコ・フォスカリに献上したのです。
1932年に、クエリーニを記念した石碑がサンドゥイに作られました。そして、毎年ローストでは、難破船とクエリーニの奇跡的な生還を記念する「クエリーニフェスト」という祭が行われます。