ヴェネツィア映画祭の様々なエディションでレッドカーペットを歩いた有名人、カナル・グランデに飛び込む子供たち、1966年11月4日の洪水、ヴェネツィアの橋から橋へ歩いたトニ・サーカスの象などは、多面的なヴェネツィアのほんの一部である。これらは30万枚以上の貴重なネガの形で、カメラフォト・エポケというアーカイブに残され、過去の箱に保管されている。1946年から1987年まで、40年間のヴェネツィアの歴史を写真が語っているのだ。その本物の宝物を管理している人は、ヴィットリオ・パヴァン氏である。
彼は14歳の時に写真家になったのだが、それはほぼ偶然なできことであった。その当時一般的だったように、店から店へと回りながら、仕事がほしいということを伝え、広めようとしていた。彼の写真家としての長いキャリアは、1948年にディノ・ジャラックが設立したカメラフォトというベネツィアのフォトエージェンシーで始まった。パヴァン氏の師匠は、チェリオ・スカピン、クラウディオ・ガッロ、ウォルター・ステファニ、クラウディオ・スティガーといった有名な写真家であった。
「夢の中にいるような感覚でした。ヴェネツィアをあちこち回る写真家たちを見ることができるなんて。」パヴァン氏が語る。「暇な時間にいつも映画の有名人が写っている写真を見に行きました。」
この貴重なアーカイブの主役の一つは特に映画である。実際にこのアーカイブには、1963年のヴェネツィア映画祭の時にサンマルコ広場を背景にモーターボートに乗る、ポール・ニューマンの有名なショットのオリジナル版がある。それだけでなく、水上タクシーを運転するショーン・コネリー、カナル・グランデに面するバルコニーに立つソフィア・ローレン、1958年のビエンナーレ国際美術展でのアルベルト・ソルディの写真などがある。有名人の写真への写り方も、時代とともに大きく変わった。
「過去のスターたちの写真はもっと親密でリアルな感じがありました」パヴァン氏が語る。「その時代のスターたちは、自由にヴェネツィアをまわり、ヴェネツィアを生きていました。ラグーナを背景に彼らを撮影するなど、写真家も自由に写真を撮れました」とパヴァン氏は続ける。
1976年から1986年の間の映画祭で、パヴァン氏が最も愛着を感じるのは、有名監督セルジオ・レオーネのネガである。理由は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のプレミア上映会の際、この多くの賞を受賞してきたイタリア人監督のすぐ隣にパヴァン自身がいたからだろう。
しかし、このアーカイブが保管しているのは、俳優や映画といったアートだけではない。例えば、前世紀半ばの雪に覆われたサン・マルコ広場といった写真の中に、ヴェネツィアの心をみることできる。そのほか、トニ・サーカス到着の際に、ヴェネツィアを背景にして橋を通過するヒトコブラクダを写した写真は夢と現実の対比のようにだ。
写真をとるのは、シャッターを押すという簡単な動作に見えるが、そこには、努力、研究、習熟、そしてどれだけ本物であるのかということが含められている。カメラフォト・エポケは、それを証明する。現在はスマホを持っている誰もが、写真を撮ることができるけれども、過去にそうではなかった。昔は使えるフィルムの量に制限があったため、写真を撮るために、まずカメラのファインダーを通じて上手く見られるようにするということが根本的に必要だった。「ファインダーは、コントロールの仕方を学ばなくてはいけないキャンバスですから」とパヴァン氏が強調する。
永久に残るアートとしての写真は、この30万枚に表現されている。これらの貴重な資料は、至急デジタル化されなければ、失われる危険性がある。実際に、写真のスキャンとデジタルアーカイブ化のプロセスを20年前から始めている。それは、彼らの本当の目的は、写真を公開することではなく、文化財・文化活動省から重要文化財にも指定されている貴重な写真の宝庫を保管することだからである。
最も大きな希望は、このアーカイブの全部を保管することである。ヴィットリオ・パヴァンは、このアーカイブに自分の人生をを捧げてきたし、現在も捧げている。写真家として、自分が撮った写真に対しても、同じ希望を持っている。パヴァン氏がヴェネツィアに到着したベトナム難民を写した白黒写真がある。その日、ヴェネト州にあるテッセラからヘリコプターで出発し、海上にあるその船に乗り込んだ。そして、ヴェネツィアに到着するまでの彼らの様子をずっと記録していたのだ、とパヴァンが語っている。「この写真を撮った時には、二人の子供が足に、もう一人は肩にくっつていました。その子供たちは極端な貧困の状況から来たから、希望が溢れてました。難民を歓迎した人も多くいました。その難民たちががヴェネツィアに到着した時、私もそこにいました。彼らにとっては夢のようなことだったのでしょうね。そののテンションを私も感じることができました。」
しかし、このアーカイブが保管しているのは、俳優や映画といったアートだけではない。例えば、前世紀半ばの雪に覆われたサン・マルコ広場といった写真の中に、ヴェネツィアの心をみることできる。そのほか、トニ・サーカス到着の際に、ヴェネツィアを背景にして橋を通過するヒトコブラクダを写した写真は夢と現実の対比のようにだ。
写真をとるのは、シャッターを押すという簡単な動作に見えるが、そこには、努力、研究、習熟、そしてどれだけ本物であるのかということが含められている。カメラフォト・エポケは、それを証明する。現在はスマホを持っている誰もが、写真を撮ることができるけれども、過去にそうではなかった。昔は使えるフィルムの量に制限があったため、写真を撮るために、まずカメラのファインダーを通じて上手く見られるようにするということが根本的に必要だった。「ファインダーは、コントロールの仕方を学ばなくてはいけないキャンバスですから」とパヴァン氏が強調する。
永久に残るアートとしての写真は、この30万枚に表現されている。これらの貴重な資料は、至急デジタル化されなければ、失われる危険性がある。実際に、写真のスキャンとデジタルアーカイブ化のプロセスを20年前から始めている。それは、彼らの本当の目的は、写真を公開することではなく、文化財・文化活動省から重要文化財にも指定されている貴重な写真の宝庫を保管することだからである。
最も大きな希望は、このアーカイブの全部を保管することである。ヴィットリオ・パヴァンは、このアーカイブに自分の人生をを捧げてきたし、現在も捧げている。写真家として、自分が撮った写真に対しても、同じ希望を持っている。パヴァン氏がヴェネツィアに到着したベトナム難民を写した白黒写真がある。その日、ヴェネト州にあるテッセラからヘリコプターで出発し、海上にあるその船に乗り込んだ。そして、ヴェネツィアに到着するまでの彼らの様子をずっと記録していたのだ、とパヴァンが語っている。「この写真を撮った時には、二人の子供が足に、もう一人は肩にくっつていました。その子供たちは極端な貧困の状況から来たから、希望が溢れてました。難民を歓迎した人も多くいました。その難民たちががヴェネツィアに到着した時、私もそこにいました。彼らにとっては夢のようなことだったのでしょうね。そののテンションを私も感じることができま