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ガリレオ・ガリレイはヴェネツィアのサン・マルコ鐘楼から「カンノン(*)」を披露

(*)翻訳者注:ヴェネツィア方言での望遠鏡

木材、象牙、骨、革、羊皮紙などで最初は軍事の目的のために作られ、その後は天空を観察するために使われました。そのようにして、宇宙の歴史に革命をもたらった重要な情報を私たちが分かるようにできました。それは望遠鏡です。この機器は眼鏡の発見に付いてきて、その父性はヴェネツィアであり、ここで製造され輸出され、大成功を収めました。

1609年8月21日にガリレオ・ガリレイは驚くべき、最新な発見を披露するために、サン・マルコ鐘楼を選びました。ガリレオはヴェネツィアのセレニッシマ共和国の高官たちと一緒にサン・マルコ鐘楼を登り、第90代ヴェネツィア総督のレオナルド・ドナの前で、この機器の潜在を紹介しました。実際にガリレオがドージエ(ヴェネツィア総督)への手紙に書いたように「この機器は遠くから気づく前に敵の船を発見できるようになり、敵を負かせるように役に立てるであろう」。この出来事は初めての天体観測から400周年を記念するために、サン・マルコ鐘楼に2009年6月7日に紹介された記念碑に設置されていました。「1609年8月21日にガリレオガリレイはここから自分の望遠鏡で人類の視野を広げた」と書いてあります。

ムラーノ島のガラス工房は早速世界的に流行になったこの機器の製作に直ちに着手しました。

「レンズは結晶で作られ、ガリレオ自身も1620年までヴェネツィアのムラーノ島ガラス製のレンズを購入しました。レンズはガラス工場で作成された後、眼鏡店で加工されていました。」とロベルト・ヴァスシェラーリが説明します。ヴァスケラーリはヴェネツィアの眼鏡職人、コレクター、そしてピエーヴ・ディ・カドーレの眼の鏡博物館の科学委員会委員長です。「確かなことは負レンズと正レンズ(*)の組み合わせにより、ガリレオはオランダ製と考えられた最初の望遠鏡を改良することができるようになったことです。彼が導入した光学的品質が他よりも優れていることに間違いない。」とのこと。ヴェネツィア製、特にバッシという人が作った望遠鏡はそこまで優られ、オランダには他によりもないと主張されたほどでありました。実際に、パドヴァ出身のガリレオはその後、フィレンゼのメディチ家の宮廷に行った時に、フィレンツェのガラス職人にレンズを作らせようとしたが、なかなかうまくできなかったため、再びムラーノ島のガラス職人の技術に頼らざるを得なかったのです。

(*)翻訳者注:負レンズと正レンズとはレンズ系 やスタジオ装置 などの分野において活用されるキーワードです。

リアルト橋の近くにあるヴァスシェラーリ氏の工房にはヴェネツィア建国から1600年を記念するために、ガリレオの発見による17世紀から18世紀までヴェネツィアに作られた望遠鏡は特別のショーケースに設置されました。「すべては主に張り子で作られ、対物レンズは木材、象牙、角、銀、真鍮などでのリングで支えられています。これはガリレオが典型的な構造で作られた遠距離の観望のための望遠鏡です。彼がが正レンズと負レンズを組み合わせ、このようにして映像が整えられ、拡大されるようになります。次に、ケプラーは2枚の正レンズでの望遠鏡を作りましたが、このようにして、天文学のために拡大率を高めることができたにもかかわらず、像は逆さまになってしまいました。」とヴァスシェラーリが語ります。

ヴァスシェラーリ氏の工房に望遠鏡の他に、骨や張り子、ヴェネチア漆で作られ、金色のデコレーションされた様々な小型の望遠鏡も展示されています。その小型の望遠鏡は劇場に行った女性たちは役者をよりよく見たり、観客の中でいた誰かをスパイしたりするために使っていました。

1966年11月4日:55年前ヴェネツィアに壊滅的な打撃を与えた浸水

55年間経ちましたが、その記憶はまだ生々しく、傷もまだ痛むのです。1966年11月4日にヴェネツィアは荒れたアドリア海からほぼ完全に水没されました。その日に、フィレンゼに山崩れからアルノ川の洪水まで、例外的な天候によりイタリア全国に甚大な水文地質学的被害をもたらしました。ヴェネツィアに水位はそんなに高く、同じようなエピソードの記憶はありません。1966年の高潮は194cmでしたが、その水位は2019年11月12にほぼ及ばれました。実際に、その日の高潮は187cm でしたので、7センチの差だけで1966年のエピソードの再生にならなかったたのです。2019年11月12日もヴェネツィア人の記憶に残った日でした

非常に強く、不断なシロッコ(*)でヴェネツィアは1966年11月3日の22時にすでに浸水され始めました。潮位監視予報センターによる、翌日の朝の5時に水位が低くなると予想されましたが、そうではなかったのです。水位が数センチだけ下がり、ヴェネツィアとその島々はそのままで浸水され、水位が12時ごろに更に高くなりました。電話も、電気も、家のガスも使わずになりました。その高潮の時に、ヴェネツィア人が慣れているブーツを履くことも足りなかったのです。全ての建物の一階は海の冷たい水の下に消えてしまいました。
(*)翻訳者注:特にサハラ(Sahara)砂漠から南ヨーロッパ地方に吹きつける熱風です

6時間後、18時ごろにヴェネツィアは決定的な試練に直面しなくてはならなかったのです。実際に、水位は低くなるかえって、案外にもう一回高くなりました。真っ暗の中で、高潮の音だけから裂けられた沈黙の中で、ヴェネツィアと他の島々も荒廃されました。サン・エラスモ島、ムラーノ島、ブラーノ島とトルチェッロ島は最大4メートルの高さの波の下に消えてしまいました。

1600年間続けたヴェネツィアの平静はその時に止まりました。絶望的な市民はそのような大きい現象の前にどうにもならなくなりました。一日の後、21時ごろに水位は低くなり、荒廃と汚れを残りながらついに都市から離れました。

サン・マルティーノ祭りの歴史とその民間伝統

焼き栗やワインの匂い、鍋のふたに叩く木製スプーンの音やドラムみたいなアルミ缶。ヴェネツィアの最も高級のパン屋とパティセリのショーウインドーはカラフルなサン・マルティーノのお菓子を展示します。サン・マルティーノのお菓子はサクサクする生地で作られ、様々なサイズを持っているビスケットです。このビスケットは馬に乗りながら剣を持っているマルティーノ聖人の伝統的な形にされ、アイシング、キャンディー、チョコレートマの金銭、そして「スパッカデンティ(折り歯)」と呼ばれる典型的な銀色の小さいボールでデコレーションされています。子供たちはグループでサン・マルティーノのように冠をかぶって、各自が片手に鍋を持って、それを叩いて音を鳴らし、「サン・マルティーン〜…」の歌を歌いながらヴェネツィアの狭い道に歩きまわります。

ヴェネツィアに1111日はこういう風に祝われています。お店にお菓子や小銭を貰えるように回っている子供たちの叫びの中で。

この伝統は、サン・マルティーノ教会があることにより特にカステッロ地区に大切にされています。サン・マルティーノ教会はいつ設立されたのかまだ不明ですが、8世紀に地元から逃げたフェッラーラ出身の家族かロンバルド人から設立したという説があります。伝統によると、その教会の設立は6-7世紀に遡り、その中で聖人の聖遺物(マントの一部、指骨と脛骨)を所蔵されています。そのため、この守護聖人の信仰の起源がこの教会と繋がっているのは確かなことです。

サン・マルティーノを祝うことは古い伝説と繋がっています。この伝説の主人公は改宗した騎士マルティーノ・ディ・トゥルースです。11月の冷たい雨の日に、マルティーノは道端で寒さで震えている貧しい男を見ました。お金もないし、どうやって助けてあげたらいいのかわからなかったマルティーノは自分のマントを半分に切り、その乞食は温まれるようにあげました。この行為の後、天気は晴れ、まるで夏のように温かくなりました。その夜に、マルティーノは夢を見て、その乞食はイエスだったと分かり、翌日の朝にマントは手付かずに戻りました。マルティーノは397年11月8日に亡くなり、11日に葬儀は行いました。

このようにして、ヴェネツィアにも数年前から他の都市にも、サン・マルティーノお菓子を作る伝統があります。そのお菓子はヴェネツィアのパン屋に生まれ、ヴェネツィア人のテーブルに欠かせないものなのです。以前はこのビスケットの形は小さく、現在より地味はもっとサクサク、チョコレートの層がありましたが、現在はアイシング、チョコレート、キャンディーといったデコレーションの方があります。

ヴェネツィアの中心部と島々以外の都市では、サン・マルティーノ祭りは「農民の正月」としての方が祝われ、その日に焼き栗とワインを食べられています。過去にこの時期にブドウの収穫が終わり、農民は重労働から休んでいました。そのため、サン・マルティーノ祭りは農業の伝統に結び付き、この時期に一年間の新しいワインは樽から開栓されます。その伝統からイタリア語で「サン・マルティーノの日に全てのブドウ汁はワインになる」という表現があります。

ヴェネツィア共和国の魔女:セレニッシマから追放された女性の物語

呪い、死刑囚の血、自家製の恋愛の魔法薬。中世のキリスト教の異端審問による、その儀式を施した女性は魔女、占い師と考えられました。その儀式を認められていなかったため、その女性たちは刑罰として耳の切断、鞭打ち、都市からの追放などの拷問を受けました

しかし、ヴェネツィアで魔女は火あぶりの刑に処せられなかったのです。このようなことに関しても、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」はキリスト教の異端審問より公正を表しました。

今年誕生から1600年記念を祝うヴェネツィアは「セレニッシマ」共和国だった時、ヴェネツィアの国立アーカイブから魔女についての物語は多く出てきます。実際に、1500年代のわたり、呪い、魔法、迷信などの罪で1600件以上の裁判が行いました。サン・マルコ広場で位置した異端審問で刑に処され、罰や拷問はサン・マルコ広場の2本の桁の間で公開に行いました。しかし、ほとんどの既決囚は愛の魔法薬やおまじないを尋ねられた売春婦でした。このように、ヴェネツィアの観光ガイドマヌエル・メネゲルが説明します。

「カンナレジョ地区に位置するユダヤのゲットー(ユダヤ人居住区)は『クラビコラ・サラモニス』のような黒魔術の本を普及するために、大変な役割を果たしました。異端審問の書類のおかげで私たちは魔法で告訴された女性の家を位置づけることができました。裁判されたので、彼女たちの名前も知っています」とメネゲルは説明します。魔女と考えられた女性の中で、娼婦であったエミリア・カテナは赤ちゃんの死体に黒魔術の儀式を施したと訴えられました。彼女はその告訴を打ち消しましたが、猫に黒魔術の儀式を施したと認めましたので、都市から追放されました。1680年代に、エミリアは自分の収入の一部を本土の土地や畑の購入するように投資し、16世紀のヴェネツィアに珍しい女性の農業起業家となりました。ヴェネツィアの有名な詩人であったヴェロニカ・フランコも同じ告訴で裁判されましたが、結局無罪になりました。「16世紀の裁判の資料に魔女は霊の執り成しだけではなく、聖人の霊も求めたということを記録されています。そして、魔法はムラーノ島に特につながっているようです。」メネゲルさんは説明します。

ドルソドゥロ地区と関係ある魔法の伝説も多くあります。例えば、カッレ(*)・デラ・トレッタにある目覚まし時計の伝説があり、そこで住んでいた魔女が現在も儀式を施した時間に止まっていると言われています。亡くなった後は彼女の家に幽霊がありそうで、その中から変な音を聞こえたり、変な現象が現したりしたと言われていたので閉鎖され、廃墟になりました。同じ伝説による、同じカッレに働いていた理容師はその建物に目覚まし時計をかけるように頼んで、その時から奇妙な出来事が起こらなくなりました。その目覚まし時計の除去された数年間後、黒魔術の現象が再発しましたため、新しい目覚まし時計は設置されたと言われています。

(*)翻訳者注:ヴェネツィアには「通り」は「カッレ」と呼ばれています。そのため、カッレ・デラ・トレッタは「トレッタ通り」という意味します。

無名兵士:ちょうど100年前、電車での旅はヴェネツィア駅とメストレ駅に停車

集合的記憶に残った電車。そして、無名兵士の亡骸の片道の旅。その電車はアクイレイアからローマまで120駅に停車し、全ての人は電車に乗せられた無名兵士に敬意を表して帽子を脱ぎ、花を投げることができるように、非常に低速で通過しました。第一次世界大戦で650万人以上の死者や不明者を思いだすための象徴的な旅

100年間を経ちましたが、イタリア人の記憶はまだ生々しいです。1921年10月29日、朝8時にアクイレイア駅からその電車は出発し、ローマまで無名兵士の亡骸を運ばれ、メストレとヴェネツィア駅にも通過しました。電車が5分で各駅で停車し、陸軍大臣は通過した時に沈黙を命し、演説することを禁止でした。

感動させる旅、そして悲哀でイタリアを1つになった旅。今年も、100年前と同じく、愛国への犠牲の象徴になったその無名兵士に敬意を表すために、もう一度この旅は設けられました。この旅に関して、一人の女性は大変な役割を果たしました。実際に、トリエステ出身のマリア・ベルガマスはイタリアの全ての母親の悲しみの象徴として、戦闘で亡くなった身分不明兵士の11つの棺桶の中で1つだけを選ぶという任務を与えられました。その母親が泣きながら選んだ棺桶は「無名兵士」として考えられたようになりました。

このオーク材の棺桶は建築家グイド・チリッリが設計した山車のようなワゴンに乗せられ、1921年11月4日にローマ駅に到着し、第一次大戦の全ての戦争墓地を象徴するヴィットリアーノ記念碑に埋蔵されました。

休日ではないものの、イタリアに1919年以来11月4日は祝日と考えられ、この日に前線で自分の国の自由のために亡くなった兵士を思い出されます。

(*)翻訳者注:

無名兵士は第一次世界大戦に亡くなり、ローマのヴィットリアーノ記念碑に埋蔵された兵士です。この兵士は身分確認できなく、様々な兵士の中で選ばれたため、彼の実際のアイデンティティーは現在も不明ですが、象徴的に第一次世界大戦でイタリアの全ての死者や不明者を表します。

ヴィットリアーノ記念碑は1921年11月4日以来、毎年公式が行う場所になり、イタリア共和国大統領をはじめ、もっともイタリア国家の大事な任務は無名兵士に敬意を表します。

サン・ミケーレ島に壮大なブナの木は墓地にある死者を167年前から見守っている

柳のように、枝の先端が地面に触るから「泣きブナの木」と呼ばれています。約2世紀にわたり、古いブナの木はサン・ミケーレ島の死者を見守っています

ヴェネツィアの記念碑的墓地があるサン・ミケーレ島に、複雑な計算による167年前に植えられたブナの木があるということを知っている人は少ないです。高さは12メートル以上で、枝葉の突起の直径10メートル、根の長さは3メートル以上になります。この木の長寿と威厳のため、歴史的にも文化的にも重要なものだと思われ、ヴェネツィア市役所とヴェリタスというヴェネツィアの水道と自然環境を管理する会社から常に監視されています。半年に一度、構造的特徴や植物の状態に変化がないように調査されています。その後、イタリア全国の全て最古の木を監視している農林水産省にこのブナの木の情報も伝えられます。このブナの木は、ヴェネツィアの墓地に最適な環境条件を見つけ、ゆっくり成長しています。現在、自然的にその場所を取り、まさにヴェネツィアの墓地の一部になったほど、そこに埋っている数多くの外国人とヴェネツィア人を見守っているようです。1800年代半ばに植えられたこのブナの木は、長年にわたりずっと墓地の建設だけではなく、都市のすべての変化の静香な観客でした。

死と生命の場所であるサン・ミケーレ島は、ヴェネツィアの墓地に眠る20万人以上の死者の物語を集め、見守っています。今年、建国から1600年間を迎えたこの都市を愛するヴェネツィア人も外国人も、自分の永遠の休息のために、この場所を選んだのです。そして、プロテスタントやオーソドックスなど異なる宗教を信仰した人々が埋蔵されているため、それはヴェネツィアの寛容を証明しています。

1804年にナポレオン布告により、衛生上の理由で埋葬は街の中心部以外にされていたため、墓地は元々サン・クリストフォロ島に位置していました。しかし、墓地が完成した直後、1813年にスペースが不十分で、サン・ミケーレ島に移動されました。

サン・ミケーレ島は、自分の特徴と有名人の遺骨があるということにより、11月2日(*)だけに全ての霊に敬意する巡礼人の行き場所ではなく、一年中に訪ねられた戸外の美術館のような場所になります。
(*)翻訳者注:キリスト教の伝統による、11月2日に全ての死者の霊は敬意されているので、全てのイタリア人は先祖の墓を訪ねに行きます。

イーゴリ・ストラヴィンスキーとその妻ヴェラの墓に小石や貝殻を持っていく人、ロシア・バレエの興行主セルゲイ・ディアギレフの墓にバレエシューズを置いておく人、ロシアの詩人イオシフ・アレクサンドロヴィッチ・ブロツキーの墓を訪ねに行く人もいます。サン・ミケーレ島の墓地は誰でも歓迎します。ヘレニオ・エレーラといったスポーツ選手、ラウレッタ・マシエロセスコ・バセッジオのような俳優、ルイジ・ノノのような作曲家、エミリオ・ヴェドヴァテオドロ・ウルフ・フェラーリヴィルジリオ・グイディのような画家、クリスチャン・アンドレアス・ドップラーのような数学者や物理学者など。100人の有名人以上だけではなく、宗教家、飛行士、兵士、戦死者、出産で亡くなった女性の物語、親の愛から引き離された子供などの庶民の遺骨もあります。そして、サン・ミケーレ島の墓地は傷心の物語も伝え続けています。例えば、22歳のロシア人の女性ソニア・カレンスキーは恋愛の失望、またはお見合いによる、ヴェネツィアで自殺することにしました。その若い女性のブロンズでの彫像は、彼女の死体を発見された時と同じく、目を閉じているまま、ナイトドレスを着て、片腕をぶら下げています。100年後、多くの旅人がこの女性の物語に感動するので、彼女の彫像の手は輝いているほど何回も触られています。

男女平等と女性の自由:セレニッシマ時代にヴェネツィアの前衛

ヴェネツィアでは、女性であることはずっと差別要素ではなかった。421年の建国から1600年記念を祝い、ラグーナに位置するこの都市は包括、技術、商業、製造、男女平等、女性の自由などの多面から見るとずっと前衛的な共和国だった。男女平等と女性の自由といったこの二つの要素は、セレニッシマ共和国であったヴェネツィアにずっと日常生活の基本的なものだった。現在、この二つの要素未だに公開議論であり、他の国にそれを得るために争いがあるものの、過去のヴェネツィア共和国はこの基本的な権利を守った最初の都市のひとつとなった。女性の起業家、画家、作家、詩人。ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の女性は誰でもになれ、自由に自分の道のりを選ぶことができた。そのため、ヴェネツィアは前向きの都市であったということを言える。実際に、ヴェネツィアの女性は男性の同じ権利と同じ価値を持っていたため、ヴェネツィアはヨーロッパと世界中の唯一な社会であった。セレニッシマ共和国の衰退まで、多くのヴェネツィアの女性は歴史の重要な出来事の主人公になったほど、彼女たちの意見を聞かれ、褒められ、尊敬された。その他、彼女たちのおかげでヴェネツィアは特別な都市として世界中にも名をはせるようになった。

当時、窯や家を買うこと、工房で自分の作りものを売れること、起業するために融資を受けること、自分の子供の道のりを選ぶことなどはヴェネツィア以外に女性が出来なかったことであった。実際に、セレニッシマ共和国には女性の自立と自由を守られ、女性の権利を保証され、この原則に反する人がいたら罰金や刑罰で処罰されていた。ヴェネツィアの国立アーカイブに保護されている公証資料に、千年前に女性解放はヴェネツィアに生まれ、保たれた権利であったということを記録されている。すでに中世に、ヴェネツィアの美術工芸の企業は男性限定のものではなかった。実際に、モルフィーナ・フィオラーリアは自分の窯でガラスの道具作りをした初めて女性企業家であり、未亡人のウリア―ナカテリーナも1373年に初めて香水製造の業務提携をしたのである。そして、マリエッタ・バロビエは、企業とガラス工芸の融合を実現した代表的な人物だけではなく、彼女は世界の最も貴重なもののひとつになったロセッタというガラスの真珠の発明者であった。

ヴェネツィアは、自分の領土こそに、女性解放の道を切り開いたフェミニズムの源流を観察することができたのである。16世紀半にモデラータ・フォンテとして知られていたモデスタ・ポッゾは初めて女性への賛辞を書き、それは最初のフェミニストのマニフェストとして考えている。そして、その賛辞のおかげで、エレナ・ルクレツィア・コルナロ・ピスコピアは卒業できた世界の初めての女性であった。

ヴェネツィアの芸術の中でも、特に18世紀に、ロサルバ・カッリエーラジュリア・ラマといった女性の活躍も見られる。特にカッリエーラは様々な王宮や美術アカデミーに入ることができた初めての女性であり、ヨーロッパ中で高評価で認められ、フランス国王ルイ15世を描くことができた。逆に、ラマは王宮の環境がもっと苦手であったため、彼女はサン・ヴィダル教会やサンタ・マリア・フォルモーサ教会といったヴェネツィアの様々な教会に自分の絵画を提示でき、当時の最も有名な画家に表立って挑戦したのである。

世紀を重ねて、ヴェネツィアの女性は当時に男性のためにと考えれた職業に進出することができ、ジャーナリスト、翻訳者、映画監督、活字印刷者のエリサベッタ・カルミネルも言った通り「女性も男性と同じようになんでもできるから」。インク、ペン、紙から囲まれていた彼女は父親の職業のコツを学び、17歳に「文学的ヨーロッパ」に進出し、その後は初めて女性として新聞社の管理者になることができた。

18世紀のヴェネツィアに自由は感じられたことだった。なぜかというと自由はずっと教養から生まれるからのである。その教養は遅くまで開いていたヴェネツィアのカフェ、舞台、貴族の人々が集まったサーロンで感じられた。長年にわたり色んな文化の混合により、その教養はヴェネツィアは価値観の変革できるようになった。貴族でも庶民でも、ヴェネツィアの女性はただの観客ではなく、積極的な役割を果したため、自分の人生、職業、芸術に通じて、彼女たちはヴェネツィアを世界のもっとも前向きの都市の一つになれるようにしたのである

都市の1600年間の歴史を語る、ヴェネツィアの壁に貼られた50枚のポスター

霧に包まれる時、サン・ジョルジョ島の欄干から、またはもっとも撮影されたリアルト橋からの観点。このようなモノクロの写真を通じてヴェネツィアを観光することができる。ヴェネツィアを語るいくつかの歴史的な瞬間は、特殊な展示会に集められた。詳しく、ヴェネツィアの歴史的な瞬間を写す50枚のポスターはこの日々に町中に貼っている。このポスターはQRコードもあり、それのおかげで普通の観客でも写真家になれる。

この戸外での展示会の名前は「美を促す。ヴェネツィア1600であり、ENITというイタリア観光機会はこのポスターで、国際的ヴェネツィアの歴史的な観光プロモーションを語ろうとした。QRコードをスキャンすると、tuaitalia.itというウェブサイトに移動され、そこで各の観客は他のポスターを見るだけではなく、観光客からヴェネツィアとその周辺をどのように見られているのかということについて自分の知識を判断することができる。「美を促す。ヴェネツィア1600というプロジェクトはヴェネツィア建国1600年記念の際、ENIT、ヴェネツィア市役所、カ・フォスカリ大学とビエンナーレ国際美術祭のヴェネツィアパビリオンの提携から生まれた。

「このヴェネツィアの戸外展示会は2019年に始まったENITのプロジェクトの一部です。このプロジェクトの目的は、ENITの100年間以上の拡大な文化遺産にあるアーカイブ文書、版画やリトグラフなどといった芸術作品を促すことです。その他、この作品はイタリアの社会や文化の進化の証拠なのです。」とENIT会長ジョルジョ・パルムッチが説明する。

この歴史的なポスターの背景は、「セレニッシマ共和国」を祝うためにヴェネツィアーノ赤という色にされたのである。ポスターに写すイメージは歴史的デジタルアーカイブから選ばれたもので、1930年代から1960年代までのモノクロ写真やポスターと1920年代から1960年代までの間、ENITの雑誌の表紙に掲載された写真から参照していた。

戸外展示会の後、この歴史の旅行は紙に移動する。実際に、この展示会のモノクロの写真は集まれ、カタログにする予定がある。その中で他の写真もあるので、カタログに通じて過去のヴェネツィアに本当の旅行することができるようになる。

マドンナ・デラ・サルーテ祭り:毎年の11月21日に、ヴェネツィア人は1630年の疫病終息のための誓いを更新する

毎年の11月21日に、ヴェネツィア人はマドンナ(聖母マリア)に供物のキャンドルを持っていくために長く、ゆっくりで道順に進み、風が吹いても、雨や雪降っても、自分の家族を守ってくれることを願います。

マドンナ・デラ・サルーテ教会に行くことはヴェネツィア人にとって義務なのですレデントーレ祭りと同じく、この祭りの際にも毎年サン・マルコ地区とドルソドゥロ地区を繋げる仮設の橋を作られています。このゆっくりの行列は仮設の橋を渡しながら、伝統通りに家族と友達と一緒にされています。4世紀前とドージェ(*)のニコロ・コンタリーニと総主教のジョヴァンニ・ティエ―ポロが疫病の生き残った人々を集め、3日間の行列を組織した時と同じように。あの時に、ヴェネツィア人は、疫病から終息できるなら、拡大な教会を建設するという誓いをマドンナへしたのです。
(*)翻訳者注:ドージェとはイタリア語でのヴェネツィア共和国の元首

しかし、ヴェネツィアと疫病の繋がりは死と苦しみだけではなく、復讐と立ち上がる意志でも成り立てられています。ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の歴史の中では2つの猛烈な疫病を思い出すことができ、それは数か月で何十人は亡くなった劇的なエピソードと考えられています。954年と1793年の間、ヴェネツィアは69回疫病と戦わないといけなかったのです。その中でもっとも大変なのは1630年の疫病でした。その疫病の終息の後、建築家バルダッサーレ・ロンゲーナが設計したマドンナ・デラ・サル―テ教会の建設を決定されたのです。

半世紀にわたりのマドンナ・デラ・サルーテ教会の建設は疫病の普及の後、1687年11月9日に完了されましたが、祭りの日は11月21日に延期されました。

このマドンナへの誓いは食事としても思い出されています。実際に、一年に一週間だけカストラディーナという肉スープを味わえることができます。カストラディ―ナスープのメイン材料はプロシュットと似いてるカストラート、すなわち香辛料入りとスモークされたオスの羊の足です。ダルマチアやアルバニアの材料なんですが、なぜかヴェネツィア料理に使われているのかというと、疫病中なのにダルマチア人だけはヴェネツィアに商品を供給し続けたので、感謝の表現としてまだこのスープを作られているからです。

「カストラディーナ」という単語の由来はまだ不明ですが、二つの仮説があります。1つ目によると、その単語はヴェネツィア共和国の領土に数多くあった兵舎や奴隷のための食材を蓄えられた倉庫は「カストラ」と呼べられ、その単語から遡ります。もう1つの説によるとオスの羊を指すために「カストラ」という単語は使われましたので、材料の単語からこのスープはカストラディ―ナと呼ばれるようになりました。

このスープの作り方は長く、とても複雑です。実際に、肉を柔らかくするために3日間に3回煮込まれます。その後は、キャベツ、玉ねぎと他の野菜に入られ、ゆっくりに全てを煮込まれ、美味しく、濃いスープになります。

カストラディ―ナはヴェネツィア人にマドンナ・デラ・サルーテの祭の際に決して欠かせない食事なのです

ブラーノ島のブッソライ(*)の歴史、一家の伝統から共通の遺産

(*)翻訳者注:ブラーノ島に生まれ、伝統的になったビスケットです。

明け方の目覚め、空気中に漂う小麦粉の粒、溶けたバターの香り、ビスケットの外はカリッと、中味はふんわりとした食感にするためにちょうどいい温度でスイッチされたオーブンのぬくもり。そして、自分の仕事を完璧に知り尽くし、形のない生地から「S」の形を持っているビスケット(*)を作る知識がある玄人の動き。ブラーノ島の歴史あるパン屋「カルメリナ・パルミサノ」に入るのは、情熱、古い伝統、家族関係の世界に貫くようなことです。カルメリナさんのご主人、ジョルジョ・セニガッリアはそれをよく知っています。彼はこのパン屋の主人で、10歳からパティシエとして働いています。その場所こそで、仕事を学なばいといけなかった少年は男子、ご主人、パティシエとブッソライの専門家になりました。
(*)翻訳者注:ヴェネト州に「S」の形を持っているビスケットがあり、それはイタリア語の「S」という発音(エッセ)と同じように呼ばれています。

「過去に一般的だったように、学校を終わった後は仕事を習うために、働き始めることは必要でした」パティシエのジョルジョ・セニガッリアが語ります。「トッマソ・パルミサーノ(ジョルジョの義父)にすべてを教えてくれました。最初にパン作りを習いはじめ、その後はお菓子。今は82歳でもまだここにいますね」とのこと。

現在はヴェネツィアの1600年間の長い歴史一部であるこのビスケットの伝統は、ブラーノ島から外国にも広がりました。しかし、全ては90年前、パンとビスケットの香り、自分の作りものを食べることにより、目がキラキラになる他人を見ることを愛するふたりの兄弟から始まりました。

20世紀の最初にバジリカータ州出身の一家がカオルレ(本土にある街)とブラーノ島に引っ越しました。南イタリアから、水から囲まれている島に位置、カラフルな家が並ぶ小さな街に引っ越すことは違う文化と習慣と慣れることも巻き込みました。慣れる新しいことが多かったにもかかわらず、その二人のパンや美味しいお菓子の愛は普遍的なもので、バニラの香り、焼き立てのパンで人々を結びつけることができました。このようにして、南イタリアの血液を持ち、ヴェネト州のラグーナにある小さな島の漁師の中で育ったその二人は1926年に二つのパン屋を開店することにしました。そのパン屋は現在もブラーノ島にありますので、歴史的なパティスリーとなり、ヴェネツィアの象徴であるブッソライの伝統を世界中に普及するために貢献しています。

過去に季節的なお菓子でしたが、現在ブッソライはヴェネト州やヴェネツィアの全てのお店の棚の上にあり、丸い形もエッセ(S)の形も、伝統通りでもクリーㇺやママレードなど入りでも毎日作られ、このビスケットは食べる人に世界のどこでも、ヴェネツィアを味わえることができます。

「現在のようなブッソライの大規模な生産は、観光業の影響で戦後に始まりました。しかし、過去にブラーノ島の各の家族は年一回、イースター(復活祭)の前にブッソライを作りました。その後は、うちにオーブンがなかったので、島の四つのパン屋にビスケットを持ち行って、焼いて、保存され、イースターに食べられていました。」とジョルジョ・セニガッリアが説明します。

伝統的ならブッソライの形は丸いですが、最近にエッセの形もあり、それは一番人気になりました。サイズが大小ですけれども、このビスケットのオリジナルレシピを何年にわたり変っていないのです。ベースは非常に簡単で、バター、卵黄、砂糖、小麦粉から始まり、そして少量のバニラフレーバーを加えるだけです。小麦粉1キロに卵黄12個、砂糖600グラム、バター300グラムを加えています。水も他の液体も入れずに、そのままで生地は練り上げられています。その後は少しの生地を取って、丸い形やエッセの形にされています。

「現在、このビスケットの生産は機械でも手作りでも作られています。ここのブラーノ島のお店では昔と同じく、大サイズのブッソライを手作りでやっています。しかし、大規模流通の売れ行きに対応するために、機械が必要なので、イエ―ソロ(土地にある都市)にラボがあり、あそこで娘が全てを管理します」とジョルジョはコメントします。

漁師の家族のビスケットであるブッソライは、誰もが食べられるスイーツになりました。このバニラ味のビスケット、イースターの伝統的なお菓子から、日常生活の一部で、昔の同じ香りやサクサク食感と共に、口内にブラーノ島の味もその島の歴史も残すお菓子になりました。

『ヴェネツィアの税関』、都市の経済的な心を語るビデオドキュメンタリー

ドガナ・ダ・マル(*)はカナル・グランデとジュデッカ運河の間に位置し、芸術と建築の宝庫として表現する土の先端で、何世紀にもわたりヴェネツィア共和国の「セレニッシマ」の経済的活動の中心であった場所です。
(*)翻訳者注:ドガナ・ダ・マルとはヴェネツィア方言で「海の税関」という意味します。

『ヴェネツィアの税関』というビデオドキュメンタリーはオンラインで公開されました。このプロジェクトは税関、ヴェネツィア市役所、ヴェネト州機関の提携による、ヴェネツィア建国1600年記念の際、ヴェネツィアの千年の歴史の重要な一分であるドガナ・ダ・マルを語る意志から生まれました。

第78回 ヴェネツィア国際映画祭で初めて紹介され、ヴェネツィアの経済的発達に関する、税関の歴史的な重要性を充実することは、このビデオのきっかけになります。

このドガナ(イタリア語での税関)・ダ・マルは元々にカステッロ地区に位置しましたが、14世紀の初頭にカナル・グランデの入口、すなわちサン・マルコ盆地の中心に移動されました。ヴェネツィアの経済のために、この場所の役割も同じく中心でした。そして、ヴェネツィアに出入りする全ての物資を当局が監視した入口、コントロールポイントになりました。

この場所の建設はマドンナ・デラ・サルーテ教会と一緒、1630年に始まり、建築家ジュセッペ・ベノーニの企画に従い、元々あそこにあった銃眼付きの塔の代用の後で17世紀末に終わりました。カナル・グランデとジュデッカ運河を分けるこの細かい三角形の土地の先端に、建物の上にベルナルド・ファルコーニの彫像がそびえます。その彫像は二人から掲げられた金色の球であり、その上にギリシャ神話のオッカシオの回す彫像があります。ギリシャ神話による、オッカシオは運とそのものの不順な本質を表現するので、風を取り締まることができるように船員を支えます。

ドガナ・ダ・マルは東南交流の中心であり、ヴェネツィアの歴史と貿易を取り巻いています。そして、かつて多くの船が係留され、ラグーナの入り江であったサン・マルコ盆地は娘としたのようにドガナを歓迎します。ワイン、オイル、木材、穀物などを積んだ色々な船や、香辛料、貴重なシルク、塩などを積んだガレーア船はヴェネツィアの中心にたどり着き、その後は関税を支払ってから倉庫やフォンダコという商家の倉庫の間で、そのガレーア船は選り分けられていました。この物資の膨大な量はヴェネツィアにたどり着くことで、この街の繁栄を保していました。3世紀後半から、この貿易の行動範囲は東地中海の海岸まで広がりました。この活動は非常に複雑で、監督と管理のシステムは必要がありました。

現在、税関は欧州連合のコンテキストの中で、領土と環境を保護しながら貿易を促進する機関になりました。2000年代初頭にヴェネツィアからポルト・マルゲラ(本土)に移動されたものの、これは世界で最も長く同じ目的で使用された建築物のひとつです

この場所はかつて貿易で遠く違う環境を結んで、ヴェネツィアの象徴でした。現在は現代美術館になりましたが、1600年前と同じく、ヴェネツィアの歴史と未来とそのままで結びつき、国際交易の発展に向けています

 

ビデオドキュメンタリーは税関のSNSや下のリンクで見ることができます

https://www.youtube.com/watch?v=5c-g4C-eGq0

ヴェネツィア方言での「チサメ・デ・ペッセ」(甘酸っぱい魚類):1300年の匿名の書物にサルデ・イン・サオルの歴史的最古のレシピ。

1300年に匿名の料理人が「チサメ・デ・ペッセ」(甘酸っぱい魚類)というレシピを書きましたが、それは現在の有名なサルデ・イン・サオル(翻訳者注:玉ねぎに覆われた揚げイワシ)の前身ようです。このレシピを含んでいる本のタイトルは『匿名のヴェネツィア人』です。1899年に出版されたこの本は、ボローニャ大学図書館の管理者のルドヴィーコ・フラティから発見されました。その本の中で、香辛料がメインされた130以上のレシピに通じて、中世のヴェネツィアの料理は語られています。

歴史と料理と密接な関係があるということを、ヴェネツィア施設の教師兼シェフのアンナ・サンティーニとアンドレア・ミケロンが良く知っています。実際に、この二人のシェフは料理を通じてイタリア語を教え、ひとつひとつの材料の中で、日常生活を保つ伝統的な料理を伝えることができます。 なぜこの方法でイタリア語を教えているのかというと、一つ一つのレシピの背後に歴史と芸術の遺産があるからです。そして、多くの学生が1600年間の歴史に通じて、ヴェネツィアの本質とオリジナリティを探ってみたいからです。

そのために、9月以降学生達は、ドージェ(*)・エンリコ・ダンドロ、詩人のヴェロニカ・フランコ、派手なジャコモ・カサノヴァ、ペギー・グッゲンハイムといった有名な一人と一緒に、テーブルを囲むということを思い描くことができます。この思い描いた機会で、ヴェネツィアと歴史的背景について話し、その過去の有名人もおそらく食べていた料理を作り、その後一緒に夜ごはんを食べることができます。
(*)翻訳者注:ドージェとはイタリア語でのヴェネツィア共和国の元首

東洋や遠い国の香りがする料理、鶏肉、スープ、ハーブや骨の種類、生姜、シナモン、アグレスト、アーモンドやアーモンドミルク、魚、蜂蜜などの中で、『匿名のヴェネツィア人』という本はドージェ・ダンドロの時代とまさに合っています。

この本に書いてあるレシピの中で、アンナとアンドレアは「チサメ・デ・ペッセ」(甘酸っぱい魚類)という歴史的に最古のサルデ・イン・サオル(翻訳者注:玉ねぎに覆われた揚げイワシ)のレシピと「アンボロイーノ・デ・ポッロ」(鶏を含むレシピ)をよく選びます。そのレシピはヴェネツィア料理にもう存在していませんが、デーツ、プルーン、アーモンド、アグレスト(未熟なブドウのジュース)、ラード(豚の脂肪)、サフランなどの材料が含んでいました。その古いレシピを真似ることが簡単ではないが、その味はきっとかつてのと近いです。

「チサメ・デ・ペッセ」(甘酸っぱい魚類)は私たちがよく知っているサルデ・イン・サオルの最古の証拠で、多くの材料は似いていますが、当時に松の実の代わりにアーモンド、蜂蜜と強い香辛料を使われていました。かえって、アンボロイーノの由来はヴェネツィアの香辛料市場が崩壊した1500年代末に遡ります。全てのレシピには香辛料、アーモンドやアーモンドミルクが大げさな量でも使われていました。所詮、本来のヴェネツィア料理はフュージョンの料理であり、地元の食材に基づき、アラブ、オスマン、東洋、ユダヤ、アルメニア、ギリシャなどの影響を受けて、その国の材料も料理にミックスされていました。本に書かれている同じレシピは全て現在に保たれていないかもしれませんが、フュージョンのコンセプトはそのままで残り、現在に伝わっています」とのこと。

面白いことに、『匿名のヴェネツィア人』に書かれているレシピの多くは12人分です。なぜかというと、この本は豊かな宴会で財産をよく浪費した12人の大食らいのために料理をしたニコラ・サリンベニという料理人のレシピに参考しているからです。文献学者にとっては、『匿名のヴェネツィア人』にあるこの12人分のレシピを、13世紀末の失われた書物から引用されています。

このようにして、学生達は香水、フライパン、熱湯を沸かす音の中で全体的なヴェネツィアと接触することができます。

「その学生達、ここに来る理由は真偽を探しているからです。コンタミネーションではなく、本当のレシピが欲しいのです。イタリアとヴェネツィア、そして、文化、美術、料理などが最も好き外国人はドイツ人です。もちろん、オランダ人、スイス人とオーストリア人もヴェネツィアの興味があります。アメリカ人もイタリアが大好きなんですが、持っている偏見が否定することが必要です。例えば、イタリア料理にニンニクがたくさん入っていることやカルボナーラにキノコを入ってもいいということとか。」とアンドレアとアンナが語ります。

一番愛された一皿は?誰でもにとって、何の皿よりも、ヴェネツィア料理の「王様」、すなわちポレンタバッカラ・マンテカト(*)です。

(*)翻訳者注:ポレンタとは、コーンミールを粥状に煮たイタリア料理です。
バッカラ・マンテカト:「バッカラ」とは「干し鱈」、「マンテカート」は「よく練る・こねる」という意味します。

1571年10月7日、450年前のレパント海戦 デゥカーレ宮殿にあるヴィチェンティーノの絵画に描かれたヴェネツィア海軍の勝利

デゥカーレ宮殿にあるヴィチェンティーノの絵画に描かれたヴェネツィア海軍の勝利

ヴィチェンティーノの絵画は一見すると、秩序がないように見えますが、実際は、よく考えられた構成になっています。今からちょうど450年前、1571年10月7日のレパント海戦は、ヴェネツィアにとって、海軍がこれまでにない勝利を納めた戦いでした。今年の10月7日に行われるヴェネツィア建国1600年記念のために、様々なイベントでも、この勝利の想いを馳せることができます。

この勝利の重要性を理解するために、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の中心であったドージェ(*)、そして政治機構の本部であったデゥカーレ宮殿のサラ(*)・デロ・スクルティニオをみてみる必要があります。建物の2階に位置するこの非常に広い部屋の壁にかけられた絵画に809年から1656年までのヴェネツィアの全ての勝利が描かれており、そのうちレパント海戦の絵画は最も大きく重要なのです。それはアンドレア・ヴィチェンティーノの作品で、彼はサインをしたにもかかわらず、日付を書くことを忘れていました。しかし、ティントレットの同名の絵画がデゥカーレ宮殿の火災で失われた1577年後に、この絵画が描かれたのは確かなことです。
(*)翻訳者注:ドージエとはイタリア語でのヴェネツィア共和国の元首
サラとはイタリア語で部屋という意味します

この作品では、オスマン帝国軍の服装や武器と、同盟軍のそれとは違いがある。同盟軍の提督たちは、冷静で無関心に見える態度で、船尾に立っています。この海戦の主人公で、その後ドージェになったセバスティアノ・ヴェニエルは、彼の使用人と一緒に描かれています。

フィリップ2世の異母兄弟で、スペインの司令官であったドン・ジョヴァンニ・ダウストリアはこの絵画の右端に描かれています。そして、教皇庁艦隊司令官マルカントニオ・コロンナは、神聖同盟旗の後ろ、教皇のガレー船の船尾に立っています。右端から入って来る三隻のガレア船に対して、トルコのアリ・パシャ提督が指揮する三隻のガレー船が左端に並びます。 二隻の船の衝突は激しく、トルコ人の見張りたちが船から海に投げ落とされてしまうほどです。絵の下端には戦闘のシーンが描かれており、格闘の厳しさ、残酷さ、敗者の苦しみ、そして彼らの勇気と抵抗の意志を、見るものに感じさせます。一人一人の戦いが、当時の世界の覇権争いを反映しているのです。

この絵を描くために、アンドレア・ヴィチェンティーノは多くの本を読み、当時の様子を視覚的に再現するを研究をしました。そのため、まさに歴史が語る通りのことを、彼の作品の中に見ることができます。1570年にヴェネツィアは地中海の支配者という立場を失いつつあり、オスマン帝国はキプロス島に狙いを定め、武力で上陸しました。ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」は教皇ピウス5世の支援を求め、翌年、神聖同盟が発足しましたが、トルコ軍に抵抗すると決めたのは勇敢なマルカントニオ・ブラガディンに率いるファマゴスタという街だけでした。しかし、ブラガディンはその直後に、敵から残酷な拷問で殺されてしまったのです。

1571年9月16日、この知らせを受けた神聖同盟の艦隊は、シチリア島のメッシーナに上陸します。海上には数百隻ものガレア船、船、小部隊があり、そこに3万人の兵士と5万人の水兵や漕ぎ手が乗っていました。ほとんどの艦隊、つまり100隻以上の船がヴェネツィアから提供されました。10月6日、トルコ提督は、同じ数の船を引き連れて、レパント港から出港しました。神聖同盟はヴェネツィアガレアの6隻を投入し、アルセナーレ(ドック)で、貨物船を強力な戦艦に改造しました。10月7日、両方の艦隊はお互いにゆっくり近づきます。そして、神聖同盟のガレア船はトルコ軍に大打撃を与え、トルコ軍は多くの民兵を失いました。その直後に、両艦隊の提督の接触があり、お互いの船に乗り込み始めました。敵の船は海岸へ押し出され、打ち上げられ、または沈没させられるためトルコ兵は逃げるために海に飛び込みはじめました。彼らの混乱の後、大虐殺になりました。それは、大きな勝利でした。敵のガレア船13隻を捕獲、90隻の沈没または突き当たらせ、3800人の捕虜という結果です。しかし、死者7650人、負傷者7800人と、神聖同盟の損失もまた大きいものでした。敵は壊滅的に倒されました。神聖同盟は、もう敵を追いかけないことにして、その後に解散しました。

その勝利は、象徴的な価値があり、感情的なインパクトを与えました。トルコ艦隊が再度海戦に復帰するようになるまでには長い時間がかかりましたので、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」はあと1世紀の間、地中海の優位を保つことができました。この海戦を船舶技術の視点からみれば、手漕ぎの船で行われた中世的な海戦の最後のものだと考えられます。

ヴェネツィアとスパイスとのゆかり

スパイスとは、食べたり、香りづけをしたりするためだけのものではなく、過去には香水や治療法としても使われていました。ヴェネツィアがセレニッシマ共和国だった時代、香辛料貿易は最も重要な収入源でした。実際に、何世紀にもわたり、ヴェネツィア共和国はこの貿易を独占していました。主要な港に寄港地や植民地が多くあったアジアから輸入し、ヨーロッパに再輸出しました。

「香辛料はヴェネツィアだけではなく、ヨーロッパ全体にとって、最も大事な商品のひとつです。香辛料は、中世の文化や経済の特色であり、ヴェネツィアを偉大にさせるものです」とガストロノミー(*)の歴史家カルラ・ココは語ります。シチリア島出身で、長年ヴェネツィアに住むココさんは、こう続けます。「香辛料はかつて大事な商品だったし、現在もそうです。料理、栄養学、薬学、香水や石鹸の作るためなど、色んな分野で使われていました。基本的には、種子、樹皮、花、小さな果実といったアジアのもので、ほとんどは乾燥させて利用されていました。」
(*)翻訳者注:美食学

商業活動を重視したヴェネツィアは、当初からその重要性を理解し、香辛料貿易に注力しました。「ヴェネツィアはこの貿易を賢く管理し、あらゆることをよく配慮されていました。実際に、1204年初頭には、もうアルセナーレ(ドック・造船所)がすでにあったので、自分たちで船を建造することができました。そのほか、13世紀後半に海洋法を整理し、商人の安全のため、「ムデ」という護衛を持っていました。その護衛は旅のスケジュールに従って、決まった日付に出発し、アジアと北アフリカの様々な寄港地に赴きました。そこで、ヴェネツィア人たちは、アジアからの香辛料を持ってきた商人と会い、売買をしていたのです。当時、香辛料の使用量は莫大なものだったので、香辛料は軽くても、非常に高価でした。ヴェネツィアに戻った後、商人はリアルト市場で関税を払い、香辛料をヨーロッパ中に転売しました。もちろん、ヴェネツィアが必要な分は、売らずに持っていました。」

化学が発展するまでは、香辛料とハーブでの薬が作られていたので、セレニッシマ共和国は薬の生産においてもリーダーの役割を果たしました。「薬の中で、ヴェネツィアが注力したのはトリアカという薬でした。それは非常に特徴的で、香辛料や毒蛇の肉など62種類の材料で作られ、万能薬のように考えられていました」、ココさんが語ります。「ヴェネツィアはトリアカを大量に作るだけでなく、当時の世界で一番高品質なトリアカを作りました。当時、様々なトリアカ薬局があり、その薬局だけがトリアカを作ることができました。さらに、作り方が正確かどうかを確かめるために、当局からのチェックもありました。そしてヨーロッパ中で販売されました。」

忘れてはいけないのは、香辛料は料理にも使用されているということです。特別なのフレーバーを付けるためだけではなく、栄養学的観点からも大事でした。実際に、中世の時代には、料理と栄養学の間に密接な関係がありました。「当時、食べ物の好き嫌いが多くあることは悪るい性質だ癖と思われていたため、それをなくすために香辛料が料理に使われただけではなく、スパイス入りのワインも作られました。また、香辛料の砂糖漬けも、食事の後に食べられていました」とココさんは説明します。「香辛料はもともとヨーロッパのものではなかったので、料理のために使用するのは難しいものだとヴェネツィア人は分かっていました。そこで、興味深いマーケティング戦略をとったのです。すぐに使えるように香辛料を小さな袋に入れたものを作って、それをヴェネツィアの袋と呼び、販売したのです。」

この小さな袋には3種類がありました。ひとつは肉に合うような強くて黒い香辛料、もうひとつは魚介類に合う甘くて控えめな香辛料が入ったものです。最後に、彼らは商人だったので、何の料理にも合う万能の香辛料ミックスもありました。それだけでなく、ヴェネツィア人は興味深い文化的な作用ももたらしました。料理と栄養学は密接に関係しているという原則に従って、ジャンボニーノというアラブ系の食の医者を雇い、1271年には、彼にヴェネツィア共和国市民権を与えました。そして、香辛料をどのように使うのか、何に役立つのか、どの病気が治せるのかを明らかにし、理解できるようにするために、ジャンボニーノにアジアの有名な医者が書いた本の翻訳と改訂を依頼しました。その依頼により、ジャンボニーノは13世紀の終わりに、ヴェネツィア料理に関して最も古いと考えられている本を書きました。

例えば、私たちが今でも毎日食べる「サルデ・イン・サオル」(翻訳者注:玉ねぎに覆われた揚げイワシ)は1300年当時、すでに食べられていたもので、香辛料も入っていました。実際は1300年のヴェネツィアの料理には、30から40種類の香辛料が使われていました。

非常に貴重で高価だった香辛料は、16世紀末まで自分の豊かさをを見せびらかすために貴族たちに使用されました。その後は、香辛料の使用は衰退していきました。

「なぜ香辛料の使用は衰退していったのかというと、アメリカ大陸の発見によってポルトガル人たちが、その貿易によりヨーロッパに香辛料を氾濫させたため、もうステータスシンボルとして考えられなくなったからです。そして医学的知識が拡大したこともあります。また、明らかな理由がなかったとしてもヴェネツィア人は香辛料を使わなくなっていきました」。ココさんは最後に語ります、「ヴェネツィア料理は1600年代と1700年代に香辛料を使用しなくなり、1800年代と1900年代には、コショウとシナモンという主要な香辛料しか知られていませんでした。しかし、この20年間に何かが変わりました。なぜかというと実際に、単なる迷信ではなく、香辛料は体に良いものだということが確認されたからです。それとアジアから来た外国人コミュニティの存在が多くなったため、料理に再び多く使用されるようになりました。近年、再発見された香辛料はジンジャー、ターメリック、シナモン、クローブ、スターアニス、コリアンダー、そしてもちろんサフランです。特にサフランは主にイランやトルコで生産されていますが、イタリアでも栽培できる唯一の香辛料です」。

『ヴェネツィアはカンピエッリの中に』ヴェネツィア生誕1600年を記念した本と展覧会

(*)カンピエッリとはヴェネツィア方言で小さな広場を意味する。

2021年9月14日、ヴェネツィア ― ヴェネツィアには、その呼称に大きな誤りがある場所があります。​​カステッロ地区にあるサンタ・ジュスティーナ広場(ヴェネツィア方言で、広場は「カンポ」と呼ばれる)です。その広場は、デ・バルバリアとも呼ばれています。が、しかしながら、ナポレオン時代とオーストリア時代につくられた登記簿の公図にしたがえば、サンタ・ジュスティーナ広場(ヴェネツィア方言で、広場はカンポと呼ばれる)は、「実はカンポ(広場)」ではなく、「カンピエッロ(小さな広場)」と呼ばれるべきなのです。

これは『ヴェネツィアはカンピエッリの中に』という本に書かれた興味深い記述のひとつです。この本の調査結果は、ヴェネツィア生誕1600年を記念して開催されている展示会でも、公開されています。展示会は、『ヴェネツィアはカンピエッリの中に』に収録された写真のうち、もっとも代表的な10枚(地区と島ごとに1枚ずつ)を大型で印刷し、展示しています。

著者のジョルジョ・クロヴァトとフランコ・マンクーソは、この本で、フランコ・ヴィアニエッロ・モーロの写真を使いながら、ヴェネツィアの小さな公共スペースを、カタログ化し、研究しています。それは、つまり、生活の主役であるにもかかわらず、これまでほぼ調査されてこなかったヴェネツィアの一面でもあります。実際に、その起源が示すように、カンピエッリは、ヴェネツィアの歴史的・都市的な変遷を明らかにしてくれます。

例えば、人々がよく訪れるカンピエッロ・デル・ティントル(翻訳者注:ヴェネツィア方言で「画家の広場」と意味します)は、古くからの商売やなんらかの施設の存在を示しています。また、それだけではなく、著名人信仰の尊重、他のコミュニティへの配慮や歓待などを明らかにしている場合もあります。この『ヴェネツィアはカンピエッリの中に』という本は、あまりよく知られていないヴェネツィアについてのガイドです。地名をきっかけにしてその歴史と由来を、読者が自分で組み立て直していけるよう手伝ってくれます。

著者たちは、ジュリオ・ロレンゼッティによる有名なガイド本を出発点とし、ヴェネツィア市役所が持つ公的な地図と、ナポレオン時代およびオーストリア時代の公図を比較しながら、カンピエッリの調査をしました。現在では、その数は、ムラーノ島、ブラーノ島、ペッレストリーナとリド島を含む、217所のカンピエッリに上ります。

各カンピエッロを撮影、調査してきましが、本の発売のイベントでヴィアニエッロ・モーロも述べたように、カンピエッリの撮影は簡単なことではありませんでした。カステッロ地区にあるカンピエッロ・デラ・ピエタやサン・ポーロ地区のカンピエッロ・デラ・マドンナのようなところは、幅が数メートルしかないので、撮影のフレーミングに多くの選択肢はありません。そして、それだからこそ、調査作業の重要性があります。例えば、現在、袋小路になっているような場所を、ナポレオン時代とオーストリア時代の公図でみると、より広い空間として記録されていることがあるからです。

ピエトロ・クエリーニ、船での遭難を、世界とヴェネツィア料理の成功ストーリーに変えた貴族

彼は1431年4月25日に、かつてヴェネツィア共和国の街であったカンディアから、68人の乗組員と一緒に、コッカ・クエリ―ナという船でフランドルへ向かって出発しました。船内に持ち込んだワイン、胡椒、生姜などのヴェネツィア共和国の貴重な品物を、フランドルの布と交換するつもりでした。しかし、布の代わりに、北海の漁師たちからもらったストックフィッシュ(干し鱈)という干し魚をドージェに持ち帰りました。それは何世紀にもわたり、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の全領土やヴェネツィアで最も美味しい料理のひとつとなったのです。

ピエトロ・クエリーニは、セレニッシマ共和国の最も象徴的な人物の一人で、船で遭難した経験を、料理での成功に変えました。このストーリーは「ピエトロ・クエリーニ、ドージェ(*)・フランチェスコ・フォスカリにバッカラ(干し鱈)を紹介する」というビデオで語られています。
(*)翻訳者注:イタリア語でのヴェネツィア共和国の元首

なお、このビデオは、ヴェネツィア生誕1600年記念として、年末までオンラインで公開されています。ビデオは、1431年から1433年の間のセレニッシマ共和国の歴史の一部を語るヴェネツィア方言での演劇です。この歴史的な出来事は、クエリー二がドージェ・フォスカリに提出した報告書、船上の評議員と書記であったクリストフォロ・フィオラヴァンティとニコロ・デ・ミキエルの日記に基づいて再現されいます。

カンディアの貴族だったクエリーニは、セレニッシマ共和国のために、その領土をを管理し、そこで生産されるマルヴァジアワインを、貴重な貿易品として利用していました。残念ながら、出航の1カ月後、コッカ号はジブラルタル海峡で岩に衝突し、様々な波乱、嵐、豪雨の後、生き残っていた乗組員はコッカ号を放棄せざるを得ませんでした。そして、老朽化していた救命ボートに乗り込み、疲労、飢え、渇きで力尽きていた船員とともに、クエリーニはサンドーヤ(現在のノルウェー)の岩に上陸、そこで避難場所とわずかな食べ物を手に入れることができました。そして、北極圏の上に位置するノルウェーのロフォーテン諸島のロースト島の住民たちが、ピエトロ・クエリーニと生き残った乗組員を歓迎してくれたのです。出航日の1433年1月25日には、クエリー二たちにバッカラ(干し鱈)を贈ってくれました。ピエトロ・クエリーニはそのバッカラを、ドージェ・フランチェスコ・フォスカリに献上したのです。

1932年に、クエリーニを記念した石碑がサンドゥイに作られました。そして、毎年ローストでは、難破船とクエリーニの奇跡的な生還を記念する「クエリーニフェスト」という祭が行われます。

ヴェネツィア1600のためのヴェニスマラソン大会「陸の国家」と「海の国家」を繋げるスポーツの大会

「陸の国家」と「海の国家」を繋げるスポーツの大会

20211015日、ヴェネツィアー ヴェネツィアの歴史が始まったと考えられているのは、伝統的に3月25日です。そして、2021年の3月25日に「ヴェネツィア1600」というプロジェクトが生まれました。

ルイジ・ブルニャーロ市長のアイディアに基づき、この一年間のヴェネツィア市役所の目標は、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の歴史を語ることになりました。そのため、ヴェネツィア共和国の一部であったロンバルディア州にあるベルガモ、キプロス島、アジアやと地中海地域とも連携することになっています。

2022年3月21日までに、かつてヴェネツィア共和国内にあった都市で何百ものイベントが開催される予定です。ヴェネツィアの歴史というのは、過去だけでなく、現在のことも意味しています。実際に、現在のことに関して言えば、ヴェニス・マラソン大会というイベントがあります。これは35年前から毎年、人々から待ち望まれているイベントなのです。

ストラ(ベネト州の本土の町)から、リーヴァ・デイ・セッテ・マルティーリ(ヴェネツィア本島)まで、芸術的遺産の豊富なヴェネトのヴィラ(別荘)に沿って、選手たちは走ります。そして、リベルタ橋(ポンテ・デラ・リベルタ)でヴェネツィアと繋がる本土の街、マルコンテンタ、マルゲラ、メストレも選手たちは通過します。つまり、ヴェニスマラソン大会は「陸の国家」と「海の国家」を繋げているのです。

クロニコン・アルティナーテ』という作品や、より最近のマリン・サヌードによる作品にも書かれているように、ヴェネツィアの誕生は現在のリアルトに、この都市最初の教会であるサン・ジャコメット教会が建設された421年に遡ります。特に、作家のマリン・サヌ―ドの日記の中には、リアルト大火災の出来事が記されており、その火災の後「年代記で書かれたように、421年3月25日に建設されたヴェネツィアで最も古いリアルトのサン・ジャコメット教会しか残っていません」と記録されています。

ヴェネツィアはヨーロッパの中で、非常に重要な国家で、1200年から拡大しはじめ、経済的に強く豊かな国となり、東西の架け橋の役割を果たすようになりました。豊かな貿易と経済的、文化的、美術的な発展により1500年には、ヴェネツィアは黄金時代を迎え、地中海のもっとも強い国家のひとつとなりました。

「ヴェネツィア1600というプロジェクトは、このために生まれました。すなわち、ヴェネツィア共和国の「セレニッシマ」とのゆかりのあるこの場所で、この一年間に行われる展覧会、コンベンション、コンサート、ショー、イベントなどを通して、そのゆかりを思い出すこと、そしてヴェネツィアの生誕を祝うために生まれたのです。

ヴェネツィア食材で作られ、味わえる和食:オステリア・ジョルジョーネ・ダ・マサ

イタリア全土にみられるように、ヴェネツィアにも日本食のレストランが多くある。しかし、日本食には種々な種類の料理があるにもかかわらず、ほぼお寿司しかメニューにないということは事実だ。

しかし、オステリア・ジョルジョーネ・ダ・マサは、それとは少し違う和食レストランである。この店のシェフは岡山県出身、40歳の本間真弘さんである。彼は20年前に、和食とイタリア料理を勉強し始めた。そして、イタリア料理を興味深く思うようになり、友達の影響でイタリアに長期間、滞在することにした。始めの数か月はフィレンツェに行き、イタリア語の学校に通った。その後はミラノ、カターニアなど色々な都市を回り、最後にヴェネツィアにたどり着いたたということである。

「ここでたくさんのことを学んだのです。イタリア料理だけではなく、イタリア文化も。そして、たくさんの人と知り合ったから、まだここにいるんですね。でも、知らないことはまだたくさんありますよ!」と真弘さんは話している。
「正直にいうと、10年の間にわたって、ここから逃げた時もありますけど、結局毎回ここに戻りましたね。ヴェネツィアは本当に唯一無二の街ですから
そして、なぜヴェネツィアが好きかというと、日本と同じく魚介類が豊富ですから。日本を思い出させるのですね。」

このレストランが開店したのは、一年前、新型コロナウイルスによるパンデミックの最中だった。
「最初はきつかったけれども、ロックダウンの時に自由な時間がたくさんあって、17年間、イタリア料理のリゾット、パスタ、ラビオリばかりを作っていたから、もう一度和食を最初から勉強しました。YouTubeの動画を観て、同じレシピを100回、110回と作り続けていました」と真弘さんは語る。

・和食ではなく、ヴェネツィア料理と和食のフュージョンのアイディアはどこから生まれたのですか。

「主な理由は、日本の材料をここで全て手に入れる事は難しいからです。そのため、ヴェネツィアの材料を使って、和食を作るということにしました。にんじん、玉ねぎといった基本的な食材でもイタリア産と日本産とはちがっていて、10年以上の経験から、最もよい使い方が分かるようになりました。魚も同じで、ヴェネツィアの魚介類は醬油やわさびと合わないと思います。ですから、別の調理法を探すことにしました。例えば、ヴェネツィアの魚介類でちらしを作っています。また、ヴェネツィアのイワシで南蛮漬けを作ります。ヴェネツィアには、イワシと玉ねぎを使ったサルデ・イン・サオールというものがあるので、このヴェネツィアの前菜を和風にして紹介しています」と真弘さんは説明する。

「でも、このような方法で、ヴェネツィア人が知らない日本のたくさんの料理を紹介しているんです。生漬けなすの揚げだし逆巻寿司おでん焼き鳥とか。でも、焼き鳥を作るために、パドヴァの鶏肉を使っています。ラーメンも同じことをしていて、岡山のラーメンのように、豚のだしではなく鶏だしを作っています」とのこと。
「ヴェネツィアにはお寿司以外の和食はほぼ知られていないので、最初は簡単で、伝統的な和食を紹介しようと思っています。年が経てば経つほど、更にフュージョンにするかもしれません」

・お客様の反応はどうですか。

「ヴェネツィア人のお客様の反応はとても良いと思います。日本人のお客様や和食をよく知っている人なら、やはり少し変で和食ではないと思うかもしれませんけど、大概のお客様の反応は良いと感じています」と真弘さんは答える。

・最後の質問ですが、イタリアまたはヴェネツィア料理の一番好きな一皿はなんですか。

「答えるのが難しいですね。でも、疲れた時にいつも簡単なパスタを作ります。ヴェネツィア料理なら、一番好きなのはリゾット・ディ・ゴ (*) かもしれません」
(*) 翻訳者注:リゾット・ディ・ゴはハゼと似いている魚で作られたリゾット。この魚はヴェネツィア方言で「ゴ」と呼ばれているが、イタリア語でギョッゾと言う。

ヴェネツィアの食材から、どのように日本料理が生み出されるのか興味がある方、そして寿司以外の日本料理を試したことがない方に、オステリア・ジョルジョーネ・ダ・マサはおすすめの場所である。真弘さんの熟練した手で作られる料理を通して、日本の伝統料理を味わえ、日本にいるように感じることができる。

Cameraphoto Epoche写真アーカイブのカメラフォト・エポケ管理者、ヴィットリオ・パヴァン氏が写真を通じてヴェネツィアの歴史を語る

ヴェネツィア映画祭の様々なエディションでレッドカーペットを歩いた有名人、カナル・グランデに飛び込む子供たち、1966年11月4日の洪水、ヴェネツィアの橋から橋へ歩いたトニ・サーカスの象などは、多面的なヴェネツィアのほんの一部である。これらは30万枚以上の貴重なネガの形で、カメラフォト・エポケというアーカイブに残され、過去の箱に保管されている。1946年から1987年まで、40年間のヴェネツィアの歴史を写真が語っているのだ。その本物の宝物を管理している人は、ヴィットリオ・パヴァン氏である

彼は14歳の時に写真家になったのだが、それはほぼ偶然なできことであった。その当時一般的だったように、店から店へと回りながら、仕事がほしいということを伝え、広めようとしていた。彼の写真家としての長いキャリアは、1948年にディノ・ジャラックが設立したカメラフォトというベネツィアのフォトエージェンシーで始まった。パヴァン氏の師匠は、チェリオ・スカピン、クラウディオ・ガッロ、ウォルター・ステファニ、クラウディオ・スティガーといった有名な写真家であった。

「夢の中にいるような感覚でした。ヴェネツィアをあちこち回る写真家たちを見ることができるなんて。」パヴァン氏が語る。「暇な時間にいつも映画の有名人が写っている写真を見に行きました。」

この貴重なアーカイブの主役の一つは特に映画である。実際にこのアーカイブには、1963年のヴェネツィア映画祭の時にサンマルコ広場を背景にモーターボートに乗る、ポール・ニューマンの有名なショットのオリジナル版がある。それだけでなく、水上タクシーを運転するショーン・コネリー、カナル・グランデに面するバルコニーに立つソフィア・ローレン、1958年のビエンナーレ国際美術展でのアルベルト・ソルディの写真などがある。有名人の写真への写り方も、時代とともに大きく変わった。

「過去のスターたちの写真はもっと親密でリアルな感じがありました」パヴァン氏が語る。「その時代のスターたちは、自由にヴェネツィアをまわり、ヴェネツィアを生きていました。ラグーナを背景に彼らを撮影するなど、写真家も自由に写真を撮れました」とパヴァン氏は続ける。

1976年から1986年の間の映画祭で、パヴァン氏が最も愛着を感じるのは、有名監督セルジオ・レオーネのネガである。理由は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のプレミア上映会の際、この多くの賞を受賞してきたイタリア人監督のすぐ隣にパヴァン自身がいたからだろう。

しかし、このアーカイブが保管しているのは、俳優や映画といったアートだけではない。例えば、前世紀半ばの雪に覆われたサン・マルコ広場といった写真の中に、ヴェネツィアの心をみることできる。そのほか、トニ・サーカス到着の際に、ヴェネツィアを背景にして橋を通過するヒトコブラクダを写した写真は夢と現実の対比のようにだ。

写真をとるのは、シャッターを押すという簡単な動作に見えるが、そこには、努力、研究、習熟、そしてどれだけ本物であるのかということが含められている。カメラフォト・エポケは、それを証明する。現在はスマホを持っている誰もが、写真を撮ることができるけれども、過去にそうではなかった。昔は使えるフィルムの量に制限があったため、写真を撮るために、まずカメラのファインダーを通じて上手く見られるようにするということが根本的に必要だった。「ファインダーは、コントロールの仕方を学ばなくてはいけないキャンバスですから」とパヴァン氏が強調する。

永久に残るアートとしての写真は、この30万枚に表現されている。これらの貴重な資料は、至急デジタル化されなければ、失われる危険性がある。実際に、写真のスキャンとデジタルアーカイブ化のプロセスを20年前から始めている。それは、彼らの本当の目的は、写真を公開することではなく、文化財・文化活動省から重要文化財にも指定されている貴重な写真の宝庫を保管することだからである。

最も大きな希望は、このアーカイブの全部を保管することである。ヴィットリオ・パヴァンは、このアーカイブに自分の人生をを捧げてきたし、現在も捧げている。写真家として、自分が撮った写真に対しても、同じ希望を持っている。パヴァン氏がヴェネツィアに到着したベトナム難民を写した白黒写真がある。その日、ヴェネト州にあるテッセラからヘリコプターで出発し、海上にあるその船に乗り込んだ。そして、ヴェネツィアに到着するまでの彼らの様子をずっと記録していたのだ、とパヴァンが語っている。「この写真を撮った時には、二人の子供が足に、もう一人は肩にくっつていました。その子供たちは極端な貧困の状況から来たから、希望が溢れてました。難民を歓迎した人も多くいました。その難民たちががヴェネツィアに到着した時、私もそこにいました。彼らにとっては夢のようなことだったのでしょうね。そののテンションを私も感じることができました。」

しかし、このアーカイブが保管しているのは、俳優や映画といったアートだけではない。例えば、前世紀半ばの雪に覆われたサン・マルコ広場といった写真の中に、ヴェネツィアの心をみることできる。そのほか、トニ・サーカス到着の際に、ヴェネツィアを背景にして橋を通過するヒトコブラクダを写した写真は夢と現実の対比のようにだ。

写真をとるのは、シャッターを押すという簡単な動作に見えるが、そこには、努力、研究、習熟、そしてどれだけ本物であるのかということが含められている。カメラフォト・エポケは、それを証明する。現在はスマホを持っている誰もが、写真を撮ることができるけれども、過去にそうではなかった。昔は使えるフィルムの量に制限があったため、写真を撮るために、まずカメラのファインダーを通じて上手く見られるようにするということが根本的に必要だった。「ファインダーは、コントロールの仕方を学ばなくてはいけないキャンバスですから」とパヴァン氏が強調する。

永久に残るアートとしての写真は、この30万枚に表現されている。これらの貴重な資料は、至急デジタル化されなければ、失われる危険性がある。実際に、写真のスキャンとデジタルアーカイブ化のプロセスを20年前から始めている。それは、彼らの本当の目的は、写真を公開することではなく、文化財・文化活動省から重要文化財にも指定されている貴重な写真の宝庫を保管することだからである。

最も大きな希望は、このアーカイブの全部を保管することである。ヴィットリオ・パヴァンは、このアーカイブに自分の人生をを捧げてきたし、現在も捧げている。写真家として、自分が撮った写真に対しても、同じ希望を持っている。パヴァン氏がヴェネツィアに到着したベトナム難民を写した白黒写真がある。その日、ヴェネト州にあるテッセラからヘリコプターで出発し、海上にあるその船に乗り込んだ。そして、ヴェネツィアに到着するまでの彼らの様子をずっと記録していたのだ、とパヴァンが語っている。「この写真を撮った時には、二人の子供が足に、もう一人は肩にくっつていました。その子供たちは極端な貧困の状況から来たから、希望が溢れてました。難民を歓迎した人も多くいました。その難民たちががヴェネツィアに到着した時、私もそこにいました。彼らにとっては夢のようなことだったのでしょうね。そののテンションを私も感じることができま

ヴェネツィアの歴史:建国から現在へ

ヴェネツィアは、本土と海洋の間にある大きなラグーナにある120の島々で構成されています。元々はヴェネツィアの領土に杭打ちの建物があり、漁業や製塩業で生活していたイリュリア(*)やヴェネトの人々が住んでいました。
(*) イリュリアはバルカン半島のアドリア海側に面する領域です。

 

建国からビザンチン帝国まで

ヴェネト人は、ゴート族やロンゴバルド族に追放され、ポー川の河口の湿地に避難し、ヴェネツィアを建国しました。

湿地と水の滞留地の間にあるという有利な立地が、ヴェネツィアを想定される敵の攻撃から守りました。実際に810年、カール大帝の息子は湿地を航行できなったため、艦隊の退却を命じました。

6世紀、ユスティニアヌス一世の時に、将軍ベリサリウスがヴェネツィアを制覇しました。そのため、ビザンチン帝国の保護のもと、ヴェネツィアはラヴェンナ総督がヴェネツィアによって統治されました。

ラヴェンナ総督が弱体化しているのを利用して、697年にヴェネツィアの貴族たちは初代のドージェ(*)パオロ・ルチオ・アナフェストを任命しました。しかし、ビザンチン帝国に、より強い権力が認められていました。また、ドージェという地位は最初は世襲でしたが、貴族の中の権力争いが頻発したため、選挙により決められようになりました。
(*) ドージェ: イタリア語でのヴェネツィア共和国の元首

8世紀末、弱体化したロンゴバルドに代わって、シャルルマーニュがイタリア国内を支配するようになりました。そのため、強力なカール大帝と密接な貿易関係があったビザンチン帝国とも、​ヴェネツィアは​折り合う必要がありました。これにより、ヴェネツィアは困難な時期を迎えることになるのです。

カール大帝はヴェネツィアを征服することに失敗し、アーヘンの和約(812年)では、ヴェネツィアはビザンチン帝国の支配下にあることが確認されました。しかし、ビザンチン帝国の完全な消滅に至るまでに、ヴェネツィアは、だんだんと、支配下にある都市という立場から、貿易の協力者という立場に変わっていきました。

当時のドージェのアグネロ・パルテチパツィオによって、ドージェの所在地はマラモッコからリアルトへと移動し、これによりヴェネツィアの島々の政府が、新しい中心地に成立しました。その新しい中心地から「リアルト文明」が生まれ、13世紀になってから、より広く知られている「ヴェネツィア」という名前で呼ばれることになりました。

829年には、ヴェネツィア共和国の守護聖人となる聖人マルコの亡骸が、アフリカのアレキサンドリアからヴェネツィアに到着しました。

976年の大火災では、ドゥカーレ宮殿、公文書館、従前のサン・マルコ教会も含め、ヴェネツィアの中心地が破壊されました。

ヴェネツィアとビザンティウム

ビザンティウムとの密接な関係により、ヴェネツィアは海上交通・商業の発展を拡大することができました。実際、ビザンティウムにいたヴェネツィア大使は、多大な特権を持っていました。

コンスタンティノープル(古代ビザンティウム)やアレキサンドリアとの絹や香辛料の交易、そして、魚、織物、木材や鉄の輸送で、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の経済力は非常に大きくなりました。ヴェネツィア経済にとって、最も生産性が高い商業活動の一つが、北アフリカでの人身売買でした。南ロシアで奴隷を買い、北アフリカで売るというやり方でした。

1000年にヴェネツィアは、ネレトヴァ人(中世初期にダルマチア地方南部に定住したスラブ系の人々)とクロアチア人に打ち勝ちました。そして、ダルマチアへ進行したドージェのピエトロ・オルセオロ2世が、東方支配と貿易を中心とする政策を決定的なものとしました。ヴェネツィアのドージェが、ダルマチア公爵となったこの出来事を記念するために現在も毎年行われのが「センサ祭り」です。これはヴェネツィアの祭りの中で最も荘厳なものです。

また、十字軍遠征という大きな出来事を前にして、当初ヴェネツィアは傍観していました。しかし、その後、ジェノバやピサなど、他の海洋共和国が東方への影響力を拡大するにつれ、ヴェネツィアも参戦しないわけにはいかないということが分かりました。

1204年、4回目の十字軍聖戦により、ヴェネツィアの黄金期ともいえる時代が始まりました。当時のドージェ・エンリコ・ダンドロの偉業のおかげで、コンスタンティノープル軍に打ち勝ち、ギリシャ帝国はヴェネツィアとその同盟国に分割されました。この功績によって、世界中で最も有名なヴェネツィア人のひとりであるマルコ・ポーロの時代に、ヴェネツィアは最盛期を迎えました

この最盛期を象徴するのが、1284年にドゥカートというヴェネツィア通貨を鋳造したことです。この通貨は3世紀にわたって、フィオリーノというフィレンツェ通貨と共に、当時、世界で最も重要な通貨の一つでした。

ヴェネツィア共和国

その後、イタリア半島の他の都市国家には存在していなかった共和国というものが、ヴェネツィアに初めて成立しました。

この新しい共和国の組織は、その初期から、ヴェネツィア共和国がドージェひとりに権力が集中するような全体主義に陥らないように努めました。なぜかというと、貴族たちは同じコミュニティーにあった他のメンバーから支配されたくないと考えていたからです。特に、彼らの経済的利益にならない場合はなおさらです。このような理由から、「ドージェの約束」が制定され、ドージェは就任の時にそれを受け入れる必要がありました。

実際にドージェは、制度的な役割を果たしたわけではなく、実権を握ったのは大評議会でした。1297年以降、評議会のメンバーは選挙ではなく、相続によるようになりました。そのため、ヴェネツィア共和国の統治は家系による寡頭制になりました。

15世紀前半、ミラノ公爵による占領の脅威から身を守るため、ヴェネツィア人はイタリア半島の他の領地に進出し始めました。

1410年、ヴェネツィア共和国は現在のヴェネト州にあたる地域の大部分や、ヴェローナやパドヴァなどの都市も支配し、その後は現在のロンバルディア州にあるブレシャやベルガモも占領しました。アドリア海は「ヴェネツィアの海」になり、その力はキプロスといった遠い場所まで及びました。

15世紀のヴェネツィアには20万以上の人口があり、世界の貿易の中心地かつ、世界最大の港湾都市になりました。この時代にヴェネツィアは最盛期を迎えたのです。そして、その宮殿たちは日に日に豪華になっていき、ヴェロネーゼやジョルジョーネなどの芸術家によって装飾されました。まさに、ヴェネツィアが一番の輝きに達した時代です。

ヴェネツィアの衰退

コンスタンティノープルの征服がヴェネツィアの歴史の頂点だとしたら、逆に1453年にトルコ人の攻撃よりそれを失ったことはヴェネツィアの急激な衰退の始まりになりました。それに加え、アメリカ大陸の発見により、国際的商業活動による利益も地政学的に変化してしまいました。

オスマン帝国が、バルカン半島に沿って拡大することに成功すると、オスマン帝国はヴェネツィアの深刻な脅威となりました。実際、1570年にトルコ人の占領によりキプロスを放棄せざるを得なくなり、その後はエーゲ海にあった領土もクレタ島も陥落してしまいました。そして、1573年にはヴェネツィアはオスマン帝国との平和条約締結を余儀なくされました。

1630年のペスト流行でヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の人口3分の1が死亡し、ヴェネツィアの衰退は誰の目にも明らかになりました。ハプスブルク家は、ヴェネツィアの勢力を蝕むためにトリエステ港を拡張しました。また、「ヴェネツィアの陰謀」の後、さらにナポリも「セレニッシマ」を征服しようとしたのです。

征服された地となってしまったヴェネツィア

18世紀、かつての姿を失ったヴェネツィアは、チュニス(現チュニジアの首都)の征服を通して、過去の威信を取り戻そうとしました。しかし、その後すぐに、フランス革命によって、フランスとオーストリアがヴェネツィアの領土をめぐって争うようになりました。

1797年、ナポレオン・ボナパルトはヴェネツィアとの同盟を提案しましたが、ヴェネツィアは拒否すると決めました。その拒否に対し、ナポレオンは復讐をすることにしたのです。ヴェネツィア共和国の13年間の独立がここで終わりを告げました。ナポレオンはドージェの華麗な黄金の船「ブチントーロ」を略奪し、フランスへと送り、他の金品も全て持ち去りました。

ドージェのルドヴィコ・マニンと大評議会のメンバーは退位し、新しい市政が敷かれ、領内にフランス人の在住を認めることになりました。ナポレオンが招集した1801年のリオン会議により、ナポレオンを大統領とするチサルピーナ共和国がイタリアに成立しました。その後1804年に、ナポレオンはフランス皇帝への即位宣言をし、イタリア王になりました。

1797年10月18日にカンポフォルミオ条約の締結で、ヴェネツィアはオーストリアに割譲されました。イタリア半島はナポレオン支配により、政治的に初めて統一されることになったのです。そして、オーストリアを「外国」として扱い、強い愛国心が生まれました。新しいオーストリアとの衝突が続き、最終的にナポレオンはヴェネツィアから退去せざるを得なくりました。

1805年のプレスブルグの和約で、ヴェネツィアはイタリアの一部になり、ウイーン会議により、フランス革命以前の地政学的な体制に戻すことに決まりました。最初にヴェネツィアはオーストリア支配下のロンバルド・ヴェネト王国の一部でしたが、やがてロンバルディアはイタリア王国に属することを選択したため、ヴェネツィアはロンバルディアから分離しました。

オーストリアとの衝突後に行われた会議では、ヴェネツィアがイタリアに併合されることが決まりました。オーストリア軍はヴェネツィアを深刻に破壊したので、ヴェネツィアは1849年8月22日に降伏しました。

これにより、一気にオーストリアとイタリアの戦争へと発展していきました。公爵、ローマ教皇、ナポリ王はヴェネツィア領土を征服するために、軍を送り込み、オーストリアはプロイセン、ロシアと「神聖同盟」を結びました。

1866年のウイーン条約により、イタリアとオーストリア間の和平が回復し、オーストリアは賠償金と引き換えにヴェネツィアを譲り渡しました。1866年10月19日、ヴェネツィア条約が締結され、ヴェネツィアはオーストリアからフランスに、その後はフランスからイタリアに譲られました。そして、同じ年国民投票により、ヴェネツィアはイタリアの一部になりました。

イタリアの統一から今日まで

1893年4月19日にヴェネツィアの市長、リッカルド・セルヴァティコは2年に1度の美術展を開催することを決定し、1895年に4月30日には第一回のヴェネツィア・ビエンナーレ(国際美術展)が開催されました。これは、文化に関するイベントとして国際的に最も重要なものの一つになりました。

戦後、ヴェネツィア本土に大規模な建築物が建てられ、その範囲が拡張されました。そして同時期に、多くの人口がヴェネツィアの歴史的中心地区(チェントロ・ストリコ)から流出したのです。1966年の洪水でヴェネツィアに多くあった一階建て住宅の弱点や危険性が明らかになりました。そして、ヴェネツィア本土にあるメストレは1960年から強い人口増加がみられました。1970年9月11日、ヴェネツィアの中心地が藤田スケールでF4の強風に襲われ、多くの被害をもたらし、21人が亡くなりました。

現在のヴェネツィアは、美術や建築のビエンナーレ、映画祭、カ・フォスカリ大学といった有名な大学のおかげで、イタリアの第三次産業と文化の中心地という役割を果たしています。それにもかかわらず、「セレニッシマ」はマスツーリズムの悪影響やラグーンでの住みづらさという理由により、歴史的中心地区から本土への移動が止まりません。

 

参考資料やサイト
Storia di Venezia - Presente, passato e futuro di Venezia

・Giulio Lorenzetti, “Venezia e il suo estuario. Guida storica e artistica”, Edizioni Lint Trieste, 1963 (1985)