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カ・ペーザロ東洋美術館の歴史

カ・ペーザロ、建物の歴史

ヴェネツィアの東洋美術館はカ・ペーザロ宮殿の4階に位置しています。

カ・ペーザロ宮殿は17世紀後半、裕福なペーザロ家の依頼により建てられました。サルーテ教会とカ・レッツォーニコと同じく、ヴェネツィアのバロック建築家バルダッサーレ・ロンゲーナによるものです。1659年に工事が始まり、1679年にはカナル・グランデに面するファサード(建物の正面)の3階まで完成していましたが、1682年にロンゲーナが死亡したため、宮殿はまだ未完成でした。

そのため、カ・ペーザロ家はジャン・アントニオ・ガスパーリに建物の完成を委託し、1710年に元々の計画通りに完成しました。ロンゲーナはルネッサンスの巨匠の一人であるヤコポ・サンソヴィーノの古典的スタイルに影響を受け、豪華でも調和がある建築を造りました。その表現は、カナルグランデに面するファサードに見ることができます。宮殿の天井は有名な芸術家(バンビーニ、ピトーニ、クロサト、トレヴィサーニ、ブルサフェローなど)の手により、フレスコ画や油絵で豊かに装飾されました。そしてその中には、ティエポロの「ゼファーとフローラ」が描かれた天井もありましたが、1935年にカ・レッツォーニコ美術館に移転されました。

ペーザロ家は質の高いアートコレクションを所有していました。しかし、ペーザロ家最後の一人がなくなった1830年までに、財産は散らばってしまいました。宮殿は当初グラデニゴ家の財産になり、その後、修道士のものとなり学校として使用されました。そして、ベヴィラックア家が購入した後、フェリチータ・ベヴィラックア・ラ・マサ公爵夫人の財産となり、1898年にヴェネツィア市に寄贈されました。

カ・ペーザロ東洋美術館の誕生

ヴェネツィアの東洋芸術館は、日本の江戸時代(1603-1868)の美術に関して、ヨーロッパにおける最大のコレクションの一つです。コレクションの所有者である政府と、カ・ペーザロ宮殿の所有者であるヴェネツィア市との合意によって、カ・ペーザロ宮殿の4階に位置しています。

このコレクションは、バルディ伯爵のエンリコ・ディ・ボルボン王子のお陰で存在しています。1887年から1889年まで、ブラガンザ家出身の妻、アデルゴンダと数人の従者を連れて、長期間世界中を旅し、インドネシア、東南アジア、中国を訪れ、そして日本には約9ヶ月滞在し、3万点以上の作品を購入しました。

エンリコ・ディ・ボルボーネがヴェネツィアに戻った後、主に冬の間に住んでいたヴェンドラミン・カレルジ宮殿の4階にコレクションを置いていました。
1905年に彼が亡くなると、コレクションはオーストリアのトラウ社の手にわたり、コレクションの作品は販売されてしまいましたが、それは第一次世界大戦が勃発して会社の資産が取り上げられるまでのことでした。

第一次世界大戦は終わり、全ての作品は戦争被害の賠償金としてイタリア政府の財産になりました。そして、1925年に政府とヴェネツィア市の合意により、コレクションはカ・ペーザロ宮殿に保管されることになりました。

エウジェニオ(ニーノ)・バルバンティーニが、美術館の担当者として、スタッコ(*)とフレスコ画のある歴史的な邸宅に、新しい東洋美術館をつくるという難しい任務を担いました。3年間で、コレクションをヴェンドラミン・カレルジ宮殿から移し、カ・ペーザロ宮殿の改造と美術館の設立を成し遂げました。そして、1950年までバルバンティーニは館長を務めたのです。東洋美術館は、1928年5月3日に開館しました。江戸時代の日本美術を中心に、中国、インドネシア美術も展示されています。
(*) 翻訳者注:スタッコは化粧漆喰とも呼ばれている建築材料です

日本をテーマにした部屋では、江戸時代の大名や武士が行列の際に身につけていた武器や甲冑、漆で作られた鞍や鐙、婦人用の珍しい輿(こし)、そして紙や絹に描かれた絵画や、華麗な刺繍が施された貴重な衣服を見ることができます。

他の二つの部屋には、裕福な商人や大名の娘が所有したもので、金粉や金箔を使う蒔絵という手法で作られた漆の嫁入り道具があります。楽器に関しては、日本の伝統的な音楽を演奏するために使われたすばらしい品々だと言えます。

作品は主に「江戸時代」、もしくは、250年以上にわたって日本を統治し、鎖国をして平和を実現した徳川家の名から「徳川時代」と呼ばれる時代のものです。加えて、鎌倉時代の木製の小像のペアや室町時代の刃といったさらに古い作品もあります。

2017年に旧サン・グレゴリオ教会美術館へのコレクション移転事業が始まりました。旧サン・グレゴリオ教会はカ・ペーザロ美術館にあるコレクションの設置に適した場所で、この移転により、エンリコ・ディ・ボルボーネが集めた東南アジア、中国、日本の貴重な作品をより広いスペースで鑑賞することができるようになります。実際に、展示スペースはカ・ペーザロ宮殿4階の640平方メートルから、旧サン・グレゴリオ教会では1100平方メートル以上に拡張されることになります。

 

考サイト 

Il Palazzo - Ca' Pesaro

Museo d'Arte orientale | Direzione regionale Musei Veneto
Venezia, il Museo d’Arte Orientale cambia casa. Al via la gara per l’adeguamento della nuova sede di San Gregorio 

ツィテッレの物語:売春に陥る危険から救われ、貴族のメンバーになったたヴェネツィアの女性たち

 

2021年8月3日、ヴェネツィア ー ジュデッカ島をヴェネツィア本島と分ける運河に面し、プンタ・デラ・ドガ―ナに向かって建つこの施設は「ツィテッレ」という名前で知られており、ヴェネツィア方言で若い女性という意味です。そこに住んでいる女性たちは貧困で売春に陥る危険性から救われました。この施設は16世紀ヴェネツィアの病院建築のひとつであり、サンタ・マリア・デッラ・プレンゼンタツィオーネ教会も、これに含まれます。

ツィテッレの施設は貧しく美しいヴェネツィアの女性に、別のチャンスを与える目的から生まれてきました。彼女たちは貧しく美しかったからこそ、売春に陥る可能性が高かったのです。ジュデッカ島にあるこの福祉施設は1561年に総主教ジョヴァンニ・トレヴィザンの意志で建設され、そこに住んでいた”ツィテッレ”は非常に若く、貧しく、そして美しかったのです。この教育施設での滞在の目的は、彼女たちが最終的には貴族の女性になることを達成することでした。

売春に陥ったあらゆる年齢の女性のためのリハビリセンターであったサン・ジョッベのペニテンティという施設と異なり、ツィテッレに入るために、美しく、貧しく、12歳から18歳までの女性である必要がありました。その2つの施設では生活水準も異なっていました。ジュデッカ島のツィテッレの施設には、将来、有力な男性の妻となるべき女性が入ったため、生活水準は高かった一方で、サン・ジョッベの施設には売春婦にもう一度チャンスを与えるだけが目的だったため、生活水準は低かったです。

「ツィテッレの施設に入るためには美人であることが必要で、『醜い』女性は入れませんでした。売春に陥る可能性があった女性に良い未来を与えるために、その女性たちは司祭から推薦され、制定した法令に従って知事たちから選ばれたのです」。ヴェネツィアの公的支援機関であるIPAVのアガタ・ブルセガンが、このように語っています。

ツィテッレに提供されたのは心理的・教育的な道でした。ツィテッレは1561年に設立され、17世紀にはこの施設を創立した貴族たちと同じように、華々しい施設だと思われていました。そのなかでも、初期に創立に関わった貴族のアドリアーナ・コンタリニは、自分の財産を全てツィテッレにいた女性たちに与えました。ツィテッレに入ったあと、女性たちは最下層から礼儀作法を身につけ、レース作りといった貴族女性の工芸を学ぶことで社会階層の頂点に達することができました。

1583年に施設にいた女性の人数が200人に達しましたが、施設の中で女性たちは外界との関係がなく、年に一度だけにヴェネツィアの島々への船でわたることが許されました。あるいは、重要な男性に妻の候補として選ばれた場合にも、施設から時々外出することが許されていました。

「施設での隔離は毎年ヒステリーや神経症の色々なケースを引き起こしました。そのほか、そこにいた皆が若く、美しく、そして完璧な結婚を探し求めていた女性たちでしたので、お互いのライバル関係が酷かったです。」とブルセガンが続けて話しています。

この施設には入った女性で一生そこに残る人は、一人もいなかったのです。この施設のおかげでは、問題のある思春期を過ごした女性が、売春をするかもしれない貧しい女性としての生活ではなく、立派な貴族の美しい女性としての生活を迎えることができました。

現在はジュデッカ島にあるツィテッレ施設はオラトリオ・デイ・クロシフェリペニテンティ教会オスペダレットスカラ・コンタリーニ・デル・ボヴォーロとともに、「ヴェネツィアの5つの隠された宝石」と呼ばれています。

 

スカラ・コンタリーニ・デル・ボヴォーロについて更に読むには:
隠されたヴェネツィアの宝石: スカラ・コンタリーニ・デル・ボヴォロ

オラトリオ・デイ・クロシフェリについて更に読むには:
オラトリオ・ディ・クロチフェリ聖堂 知られざるパルマ・イル・ジョーヴァネの絵画を隠し持つ宝箱

ヴェネツィアの歴史あるレガッタレース

9月5日の日曜日にヴェネツィアの歴史あるレガッタが戻ってきます。このイベントは最も古いイベントのひとつで、今年はヴェネツィア建国1600年を記念して、さらに重要なイベントになります。

昔は漁師の間にも競争がありました。実際に、毎日夜に仕事を終えた後、特徴的な"voga alla veneta"(漕ぎ手が船首、つまり進行方向を向いて漕ぐこと)のために準備した船で、獲れた魚とともにリアルト市場に向き、一番のりになるために競争しました。なぜかというとリアルト市場に早く到着できれば、最高価格で漁獲を売買できる可能性があったからです。

重要なイベントや、宗教的なお祝いのために開催されたレガッタに関して一番古い情報は、13世紀後半以降に遡ります。

手漕ぎボートのレースに関する最初の記録は1274年に遡ります。つまり、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」は、ヴェネツィア人の体力と航海技術を賞賛する、このようなスポーツイベントを13世紀にはすでに推進していました。

その後、1315年に上院がこのレースの開催を取り締まるようになってから、スポーツの楽しい側面とフェスタ・デレ・マリエの記念日という宗教的な側面を結びつけるようになりました。このようにして、このイベントは街の誇りと威信の源となるようなユニークな光景を作り出し、地中海の最も強力も影響力を持つ海洋共和国の優位性と裕福さのの一つの証となりました。

レガッタが描かれた最も古い画像は、16世紀に描かれたヤコポ・デ・バルバリの有名な「ヴェネツィアの眺望」です。当時、このレースは4人の漕ぎ手を乗せた船を使って、リド島とサン・マルコ広場の間のラグーンで行われていました。

1797年のヴェネツィア共和国の崩壊後、フランスの占領、オーストリアの占領、そして2つの世界大戦といった複雑な歴史的出来事にもかかわらず、この歴史的レガッタはヴェネツィア人が捨てずに、当時からずっと守り、現在も維持してきた重要な風習として生き続けています。

しかし、最初の「近代的」レガッタの起源と考えられるのは1841年ですが、競争する船の数も色も違っていました。イベントの費用は民間ではなく、公費負担になりました。実際、その年からレースは現在のような形になりました。すなわち、オーストリア当局の権限の下、ヴェネツィア市が主催し、カナル・グランデで「ゴンドリエーリが、自分たちの器用さを維持できるよう奨励する」ために実施されました。

しかし、19世紀から20世紀の前半においては、レガッタがカナル・グランデにおいて一定の頻度で行われたということはなく、重要なイベントの際にだけ開催されていました。例えば、1856年のレガッタは、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・ヨーゼフ皇帝とその妻シシィの訪問を記念して開催され、1866年のレガッタは、ヴェネト州がイタリア王国に併合されたことを記念して開催されました。そして1892年に行われたものも、第一回ビエンナーレ(国際美術展)に合わせてでした。

1899年に開催された第3回国際アートビエンナーレの際に市長のフィリッポ・グリマーニが提案し、このレガッタレースに「歴史的」という意味合いが加わるようになりました。

1922年以降、歴史的レガッタは毎年、ヴェネツィアのコムーネ(自治体)が組織して、開催されています。世界大戦の影響により、1939年から1946年の間に、唯一の中断がありましたが、戦争の真っ最中であった1942年には、19世紀末を舞台にしたチェスコ・バセッジョ主演の映画『カナル・グランデ』で使用するために開催されました。

ゴンドリーニ(*)という伝統的レガッタレースは、男性に限られたものですが、長年にわたり、それに加えて、他のレースも開催されてきました。例えば、1951年からは6本の帆がある。カオルリーネ(*)のレース、1976年からは若者のためのレース、1977年からは女性のためのレース(ただしこのレースは1953年と1954年にもすでに開催されていました)があります。

1年間にわたり行われる予選の後、各レースに9隻が参加し、「旗」をめぐって競い合います。1番目の船には赤い旗、2番目には白い旗、3番目には緑の旗、4番目には青い旗というように分けられています。

*ゴンドリーニとはヴェネツィアのレガッタのための船ですが、普通のゴンドラから形をとっているのに、形のバランスも性能もそれとは異なるヴェネツィアの船です。

*カオルリーナ船(単数形)とは、完全に対称的なフォルムを持つ輸送船です。丸い形の船首や船尾があり、その名前の由来はカオルレ市にあります。その船のタイプは用途に応じて様々ありますが、現在はレガッタ用のカオルリーナ船のみが残っています。

色々ななタイプのレガッタレースにも、重要なポイントや基本的な目印があります。まずは、スタート地点に位置するサンタ・エレナ庭園前に張られた「スパゲト」(紐)です。そして、サンタ・ルチア駅前のカナル・グランデの真ん中に設置された「パレト」と呼ばれる棒、これは伝統的に勝敗が決まると信じられている場所にあります。そして「マキナ」という大きな浮ぶ施設です。それはカ・フォスカリ大学の前に位置し、金色の豪華な彫刻も多くあり、競技終了の際に、賞品として賞金と旗が授与される場所です。

この日の最も目立つ特徴的なこととして、歴史的なオープニングパレードがあります。それは第二次世界大戦後から開催されています。1489年にキプロス女王カテリーナ・コルナーロが、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」のために自発的に王位を放棄、これによりキプロスをセレニッシマ共和国に正式に併合させたという歴史的出来事を記念しています。

このパレードには16世紀の色とりどりの典型的な船が多くあり、その船にドージェ(*)、ドージェの妻カテリーナ・コルナーロ、ヴェネツィア共和国の高官たちを乗せています。このようにして、地中海で最も強力で影響力のあった海洋共和国の輝かしい過去の瞬間を忠実に再現しているのです。

*ドージェ: 「セレニッシマ」ヴェネツィア共和国の元首です。

サン・フランチェスコ・デラ・ヴィーニャ教会図書館:古代の本、初版本、希少な本の遺産

アルド・マヌーツィオとともに、ヴェネツィアで「近代 」の本が生まれた。

ヴェネツィア、2021622日 ― 壁の向こうには緑とブドウ畑、そしてラグーンを迷う視線。一番感動するのは、その静寂である。

サン・フランチェスコ・デラ・ヴィーニャ教会図書館は、昔と変わらないままでヴェネツィアの一角に残っており、その「本物らしさ」には心が打たれる。このフランシスコ小修道会の修道院が、カステッロ地区のこの小さな街の主役であることに疑問はない。足を一歩踏み入れると、近隣の学校の喧騒から隔てられ、超現実的な静けさに包まれる。

サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会図書館のルーツは1200年にある。1400年末にアルド・マヌツィオが出版印刷活動のために選んだのがヴェネツィアだった。彼は出版の先駆者であり、ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」から全ヨーロッパに近代化の衝動を与えた人物である。

今もここにいる数少ない修道士たちは、教会、修道院、そして図書館を管理している。その図書館は、年月とともに神学研究者たちの基点・基準点となった。現在では、ヴェネト州の様々な迫害された修道院の11のコレクションから、20万冊以上の書物をこの図書館が保管しており、そのうち45000冊は古代のものである。その閉鎖された修道院のひとつ、サン・ミケーレ・イン・イゾラ教会では、ヴェネツィアではじめて印刷されたアラビア語コーランの最後の1冊が発見された。そのコーランは現在はサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ図書館のコレクションに含まれている。この膨大な遺産の「保護者」であり、ガイドから館長までこなしているのが、修道士リノ・スガルボッサだ。

「ここには、活字印刷によるコーランの初版本があります。1537年か1538年にパガニーノ家がヴェネツィアで製作したもので、現存する唯一のコピーです。美的な観点からみると非常にシンプルな本ですが、その内容は非常に重要です。」修道士リノが説明している。

「このコーランは、現在残る唯一の初版です。これは中近東セム語の研究者であったテセオ・デリ・アルボネシがたしかに所有していたもので、彼はコーランの印刷が初めて試みられたのはヴェネツィアだという情報を伝えてくれました。どのようにして修道士たちのもとにやってきたのかは、不明なままです。」

「私たちが持っているこの最初の本によると、このコーランは、1700年後半、閉鎖されたフランシスコ会のひとつで、コネリアーノにあるサンタ・マリア・デレ・グラツィエという修道院にありましたが、その後ヴィットリオ・ヴェネトに移されました。オーストリア支配の時代(*)に、この図書館は移動を繰り返しました。修道院は1800年代の終わりに修道士の所有に戻り、1950年代に16世紀の他の作品とともに、この図書館はサン・ミケーレ・イン・イゾラ教会に移されました。サン・ミケーレ・イン・イゾラ教会が閉鎖された後、サン・フランチェスコ・デラ・ヴィーニャ図書館に到着し、現在まで保管されています。」
(*) オーストリア支配についての詳細には「ヴェネツィアの歴史」の記事を読んでください。

サン・フランチェスコ・デラ・ヴィーニャ修道院の歴史は、抑圧と拡張からなるもので、この800年の長い間、修道会を特徴づけてきた。

「修道士は1254年からこの場所にいます。その数年前から、ここにいたかもしれません。なぜかというと、マルコ・ジアニは遺言で、ブドウ畑の土地を宗教団体に寄付しましたが、その中には修道士も含まれていましたし、その遺言には修道士たちが以前からここにいたとも書かれていたからです。この寄付の後、修道士たちは小さな修道院とゴシック様式の教会を建設しましが、その後は完全に改築されることになりました。」

「15世紀後半になると、アルセナーレの開発により、この地域に人が集まるようになりました。修道士たちは、修道院を拡張する必要性を感じ、修道院に2つの回廊を追加しました。中央には永久に図書館とするための部屋を作りました。それは修道院の心臓部と言ってもいいほどでしょう。そして、その直後に現在は菜園となっている大きな回廊を作りました。」

「1600年には別の棟が建てられ、薬局や診療所、修道士の服を作るためのウール工場として使われていましたが、修道院が兵舎になった後、つまり1810年以降に、取り壊されました。」修道士たちは1883年にサン・フランチェスコ・デラ・ヴィニャに戻り、修道院での生活を再開した。

(*) 翻訳者の注: ナポレオンは修道院を閉鎖したので、1810年から1830年までの間、兵舎になりました。そのため、修道士はその生活を一度は捨て、1830年ナポレオン後に、またその建物を得て、元の生活に戻りました。

「この修道院の歴史の中で重要なのは、エキュメニカル研究所です。それは、ローマのポンティフィカル・アントニアヌム大学の一部である神学部で、私たちも所属しています。」

「この研究所のおかげで、図書館も恩恵を受けています。というのも、当初は修道士のためだけにサービスを提供していましたが、その後、公共の図書館のように、定期的にサービスを提供するために、拡大して一般に開放するようになったからです。」

「研究所の設立に伴い、図書館は特にエキュメニカル(教会一致運動)的な作品を専門に扱うようになり、2つ目の部屋が作られました。2000年から、ヴェネト州の修道士たちは、数字上の理由と仕事の不足を理由に、いくつかの修道院を閉鎖することになりました。そのため、地域の監督局とともに、閉鎖された修道院の様々な古代のコレクションをこの図書館にに持ち込むことに決めたのです。このようにして、当初4万冊だった古書の数が、現在では20万冊近くに増え、そのうち4万5千冊が古書である。」

「2003年にサン・フランチェスコ・デラ・ヴィーニャ教会図書館は国立図書館システムに参加し、ヴェネト州の地域図書館の一部となったため、私たちのカタログは誰もが参照できるようになりました。」

冷暖房完備の新しい書庫には、16世紀の書籍、1600年代や1700年代の書籍、ミニアチュール(細密画)、初版や非常に珍しい版、検閲されたテキストなどのほか、より近代的なものもある。神学や哲学に関する膨大な書籍に加え、ヴェネツィアの歴史に関する古書、アトラス、手稿、聖歌隊の本、初期の印刷例などもある。

そして、図書館には、専門知識、彫刻、研究など本物の名作があふれている。

例えば、4言語で書かれた多言語対訳聖書(ポリグロット・バイブル)の第2版だ。これは1570年から1572年のもので、60人の作業員が2年間かけて作成した。その他には、原語と翻訳を右左に並べた割書きの聖書など、極めて特殊な書籍がある。

また、ヨアン・ブラウの水彩画の地図もある。彼は、東インド会社公認の地図製作者で、息子たちとともに地球儀や地図帳、都市のイラストなどの作成にその生涯を捧げた。

1500年代後半から1600年代前半にかけてジョージ・ブラウンが制作した6巻の図版は、都市のイラストの最大のコレクションである。まるで衛星写真のように都市を上から見た図や、鳥瞰図によって、都市が再現されている。

この図書館では、写本から印刷された本まで、本の歴史をたどる真の旅ができる。読むのが難しいゴシック・ローマ文字からラテン語の丸い書体、「オクタボ」版の発明により1400年に出版の発展に大きく貢献した文庫本の先駆者、アルド・マヌツィオが導入した筆記体まで、さまざまな種類の可動式活字についての旅もできる。

ヴェネツィア方言の起源と進化

2021年624日、ヴェネツィア― 方言でありますが、何世紀にもわたって言語であった。現在でも使われている多くの言葉がイタリア語になった。ヴェネト出身の言語学者で、ローザンヌ大学でイタリア語史とロマンス言語学の教授を務めるロレンツォ・トマシン氏は、ヴェネト州の言語史やイタリア人作家についての著書や論文を多数発表している。

トマシン氏はヴェネツィアのカ・フォスカリ大学、ミラノのボッコーニ大学、フェラーラ大学でも教えていた。ピサのスクオラ・ノルマーレの研究員や、カリフォルニア大学の客員研究員を務めていたこともある。ヴェネツィア建国1600年を記念して、トマサン氏はヴェネツィア語の起源と進化について語っている。ヴェネツィア語は、セレニッシマ(ヴェネツィア共和国)の商業活動が普及の決め手となり、トルコ語、ギリシャ語、アラビア語の言葉が加わって豊かになっていった。

 

先生、ヴェネツィア語は方言ですか言語ですか?

言語学者にとっては、すべての方言が言語なのです。方言と言語の区別は、科学的にはあまり厳密ではありません。どちらかというと社会的・歴史的基準に基づいていて、議論の余地のあるものです。

ヴェネツィア方言は今日、イタリアの他の伝統的な都市の話し言葉と同様に、方言であるとも言えるでしょう。しかし、何世紀にもわたって、ヴェネツィア語は言語であったと言えます。実際には、会話や書き言葉などのあらゆるコミュニケーションの場で使用され、豊かな文学も備えていました。

ヴェネト地方の方言とはどう違うのですか?

差異は、音声学、形態学、そして語彙(ある単語や別の単語の使用)など、あらゆるレベルで存在しています。何世紀にもわたって、今日私たちがヴェネトと呼ぶ地域で、最も名声を得ていたヴェネツィア方言は、本土(*)の都市の言葉に強い影響を与え、偶然ではなく「支配的」と呼ばれていたヴェネツィア方言に徐々に近づいていました。
(*) 翻訳者注:イタリア本土・島であるヴェネツィアに対する言葉として使われます

本土では、社会文化的に高度な場所において、​​ヴェネツィア方言を話すことが何世紀にもわたり、ほとんど社会的義務となっていました。前の世紀には、影響力と力関係の力学が少し変化しました。例えば、ヴェネツィアの都市中心部の人口が急激に減少したことや、本土の多くの方言が再び活気を取り戻したことなどの影響が挙げられます。

いずれにせよ、その差異は存在し続けていますし、そのいくつかはとても重要なものです。今日でも、ヴェネツィアの人は誰でも、イントネーションだけで、数秒後には本土の方言を話す人を見分けることができます。このような違いが維持されていることが、今日のヴェネツィア方言の豊かさとあふれる活力を知る手がかりの一つとなっているのです。イタリアに限らず、このような状況がどこにでも、あるわけではありません。

 

ヴェネツィア方言は他の方言にどれだけ影響を及ぼしましたか。

ヴェネツィア方言は本土の方言の詳細にまで影響を及ぼしましたね。例えば、"gondola"や"bala"などの言葉にあるような"L"の発音はイタリア語と違っています。また、音が落ちて"bello"は"beo"、"calle"は"cae"のように発音します。

このような発音は、比較的最近、ヴェネツィアから本土に広がってきたということは確かです。

ヴェネツィア方言はヴェネト州の方言だけでなく、イタリア全体、つまり共通のイタリア語に、広く影響を及ぼしました。それは、たくさんの言葉です。

 

過去にヴェネツィア共和国の影響下にあったために、現在でもヴェネツィア方言を話したり、理解したりする国がありますか。

アドリア海の東岸では、何世紀にもわたってヴェネツィア方言が根付いてきたので、今でも広く理解されています。逆に、エーゲ海や地中海東部の島々もヴェネツィアと何世紀にもわたって密接な関係があったのに、その地域においてはヴェネツィア方言の生存は稀で、疑わしいです。

 

ヴェネツィア方言は交易の拡大に伴い、どこまで広がったのですか?

偉大な歴史家フレデリック・レーンが書いたように、ヴェネツィアは過去に現在の多国籍企業のようなものでした。ヴェネツィア共和国の上院が、その大規模な株会式社の取締役会でした。そして、その支社が地中海、黒海、さらには北海にまで散在していたのです。

貿易こそが、非常に独特な政治的、経済的、社会的な組織を持つヴェネツィア共和国の存在意義でした。それにともない、ヴェネツィア方言は、まさに貿易のおかげで国境を越えて広がることができました。実際に、ヴェネツィア方言の経済・金融活動に関する様々な言葉が他の地域にも広がっていきました。ヴェネツィアとヴェネツィア人が商品とお金の有能な管理者として広く認められていたということです。言葉は、その証拠になるでしょう。

そのほか、ヴェネツィア共和国崩壊後であったにもかかわらす、19世紀に現在のヴェネツィア・カフォスカリ大学の前身である高等商業学校が設立され、20世紀に外国言語学部として引継がれました。これは、偶然のことではないでしょう。市場と国際的言語とのつながりが、ヴェネツィアの特徴の一つだったという証拠だと考えられます。

ヴェネツィア方言は共和国時代から現在に至るまで、どのように進化してきたのでしょうか。

構造や一般的な文法の観点から見ると、ヴェネツィア方言はイタリアの各都市の方言の中でもっとも安定した方言の一つだと言えます。他のイタリアの大都市の方言と違って、中世から近世にかけて、人口の大きな変化や歴史的に悲惨な出来事が特になかったので、ヴェネツィア方言はほぼ変化していなかったのです。

大まかに言えば、もしタイムマシンでマルコポーロのヴェネツィアに飛び込むことができたら、現在のヴェネツィア方言で話してもおそらく簡単に理解されるでしょうし、中世に話されていた方言を問題なく理解することもできるはずです。現在とそんなに大きく違っていないからです。

ヴェネツィア方言の歴史はとても豊かです。なぜかというと、それぞれの時代ごとに、ヴェネツィア方言が新しい用途に適応し、豊かな要素や機能を備えてきたからです。やはり、ヴェネツィア共和国と交流があったた他の多くの言語からの貢献も大事でした。

実際に、何世紀にもわたって、ヴェネツィア方言にはギリシャ語、トルコ語、フランス語、ドイツ語、アラビア語の単語が徐々に追加されてきました。大きなヴェネツィア方言の歴史的語源辞典を作って、このような要素をを全て収録しようとしています。そのうちの一巻は12月に出版されました。もうすぐ侮辱の言葉や汚い言葉に特化した新しい小さな一冊も出版されます。そのような言葉は多くの読者がまず最初に辞典探すものですから、

アンドレア・ロマーニ提督が語るアルセナーレ: ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の造船所から海軍とボートショーの拠点へ 

2021年6月8日、ヴェネツィアー アルセナーレ (*) の歴史は、人と船と海の歴史です。数日前に、国内外のボートに特化したイベントの第2回目が開催されました。

9日間のヴェネツィアボートショーで語られた海軍の芸術が、その「自然の家」に戻ってきました。8世紀前、アルセナロッティ (*) がセレニッシマ共和国の船を作った場所に、現代のボートのあらゆる革新がもたらされています。
(*)翻訳者注:アルセナーレとはドック(船を造り出されている場所)という意味します。
(*)翻訳者注:アルセナロッティは「工廠員」、アルセナーレの職人という意味します。

 

現在、イタリア海軍の司令部となっているアルセナーレは、豪華な雰囲気と、ガレーア船(*)やその他のヴェネツィアの船に命を与えています。そして、地中海におけるセレニッシマ共和国の艦隊を偉大なものにした、すべての鍛冶職人、ロープメーカー、アルセナロッティ、大工、建築家の仕事を思い起こさせてくれる場所です。
(*) 翻訳者注:「ガレア船」とは中世末期から地中海に広まったオールと帆を備えた軽便な軍艦で、非常に薄くて平らな形をしている船です。

アンドレア・ロマーニ提督は、アルセナーレや現在も海軍歴史博物館に保存されている船の珍しい話や逸話、そして、この場所の歴史から海軍とのつながりまで語ってくれます。

 

ヴェネツィアのアルセナーレの生まれと拡大

ヴェネツィアのアルセナーレは、もともとは現在のカステッロ地区ではなく、サン・マルコ広場の近くにありました。東洋との貿易関係を維持し続けるために、より安全な船団を持つ必要があったため、ヴェネツィアにはガレーア船を建造するための最初の造船所が設けられました。この造船所がサン・マルコ広場からカステッロに移されたのは11世紀のことで、現在もその場所にあり、街の偉大かつ急激な発展に貢献しています。

海軍の生活と力の中心の一つであるアルセナーレは、国家の船舶生産を確立しました。また、ヴェネツィア船の建造を通して、新しい貿易ルートを確立し、それを守る能力保っていました。

これは、地中海でのセレニッシマ共和国の海軍力発展を決定づけた要因です。アーセナルが非常に正確で効果的な管理・統制体制を持ち、その中でヴェネツィアの有力な貴族の代表者が交互に役職に就いていたことにも象徴されています。

また、アルセナーレが街の公的、政治的生活において中心にあったこともわかっています。「海との婚礼の祭典」などヴェネツィアの大イベントの際には、性のアルセナーレに保存されているセレニッシマ共和国の代表的な船「ブチントーロ」をアルセナーレ提督が操縦していました。また、アルセナロッティ(工廠員)よく組織された極めて高いプロ意識を持って働くことのできる熟練たちであり、船の製造だけでなく、火事の際には今でいうところの民間防衛のような役割も果たしていたのです。

 

14世紀にはすでに、ヴェネツィアのアルセナーレはヨーロッパで最も重要な造船所のひとつとなっており、ダンテの『インフェルノ』の第21カントでは、「l'Arzanà de Viniziani」汚職への罰を受ける場所として言及されているほどでした。

当初は造船所でしたが、後に拡張され、400年から500年の間には、最大の壮麗さを誇るようになりました。周囲3kmの壁や、4000人以上のアルセナロッティの家が建設され、1日に1隻のガレーアが造船されました。また、このタイプのヴェネツィアの手漕ぎボートは、長さ41メートルで、通常は6~12ヶ月かけて製作されていました。

4世紀になると、アルセナーレの生産量は3倍になり、トルコの脅威を考慮して、生産速度を上げるために新たな部門や組立ラインの設置が必要となりました。また、街で最初のルネサンス建築の例となった「ランド・ゲート」の建設も行われました。

 

アルセナーレとイタリア海軍の関係

今日のアルセナーレにはイタリア海軍の基地があり、過去のヴェネツィアの海洋進出の象徴的な場所の一つとして、非常に尊敬されています。この建物の中には、海軍の重要なトレーニングセンターであり、文化の中心でもある海軍海洋学研究所があります。

アルセナーレの海軍士官は、他の民間の学生や、他の同盟国の海軍士官とともに、ヴェネツィア・カフォスカリ大学が共同で運営している戦略・国際安全保障研究の修士課程に参加しています。

教育的・文化的側面に加えて、アルセナーレは、現在、イタリア海軍の2隻の艦船(アレトゥーサ艦とポンザ艦)が恒久的に係留する海軍基地となっています。ひとつは、海図や海事資料を作成するための調査を行う海洋調査船で、ポンザ船のほうは灯台や海事信号のサポートをする目的があります。

この活動に加えて、イタリア海軍は2年に1度、世界で最も重要な海軍外交イベントの1つである国際海洋シンポジウムをアルセナーレで開催しています。前回の開催では、世界各国の海軍のトップや代表団、20の国際機関が参加しました。このイベントでは、海洋安全保障と国際情勢をテーマにして、議論が行われます。

 

海軍歴史博物館の逸話や秘蔵品

アルセナーレの近く、サン・ビアージョ広場には海軍歴史博物館があり、まさにアルセナーレの造船所で作られたセレニッシマ共和国の海軍力の栄光と象徴がを保存されています。5階建て、42の展示室と4000平方メートルの展示スペースで構成されるこの博物館は、海洋分野では世界で最も美しく充実した博物館の一つとされています。セレニッシマの穀物倉庫があった場所の一つに建てられており、そこではかつて「ビスケット」と呼ばれる種類のパンが生産されていました。

セレニッシマ共和国の偉大な海の伝統と近代海軍の歴史を物語るものや逸話や証言の中で見逃せないのは、「ブチントーロの模型」を保存している部屋です。ブチントーロは、ドージェ(*)が「海との婚礼の祭典」を祝った代表的な船です。ここには、ナポレオン(*)の手を逃れた「ブチントーロ」の唯一のオリジナルの一部が展示されています。それは、に船上にヴェネツィア旗を掲げた木製のポールです。
(*)翻訳者注: ドージェはイタリア語でのヴェネツィア共和国の元首
(*)翻訳者注:ナポレオンとの関係を深く知るには、「ヴェネツィアの歴史」の記事を読んでください。

 

博物館のエントランスホールには、18世紀後半に活躍したセレニッシマ共和国最後の偉大な船長、アンジェロ・エモ提督のためにアントニオ・カノーヴァが彫刻した記念彫像があります。また、ヴェネツィア海軍とイタリア海軍の伝統を引き継いだ証として、第二次世界大戦で海軍の急襲部隊が使用した、いわゆる「豚」と呼ばれる低速魚雷が展示されています。

15世紀から19世紀にかけての海をテーマにした貴重なコレクションなど、それぞれに興味深い歴史を持つ宝物がたくさんあります。​​海の国の伝統を伝える素晴らしい博物館は、一般公開がついに再開されました。

また、パディリオーネ・デッレ・ナヴィ(船のパビリオン)も見逃せない場所です。かつてのオール工場で、現在はヴェネツィア海軍歴史博物館の約2000平方メートルの展示ホールのひとつとなっています。その歴史が16世紀さかのぼるパディリオーネ・デッレ・ナヴィには、セレニッシマ共和国の最も古い代表的な船が展示されています。漕ぎ手18人乗りの巨大ゴンドラ「ディスドトーナ号」、1930年代の当時としては画期的な燃焼方式で時速150km以上の世界記録を樹立したモーターボート「アッソ・バリエット号」、グリエルモ・マルコーニがイタリア海軍と共同で無線電話の実験を行なった「エレットラ号」の一部、19世紀に建造されたイタリア王室がヴェネツィアを訪問する際に使用した豪華な儀礼船「スカレ・レ

イタリアに旭日中綬章はヴェネツィア・カフォスカリ大学のボナヴェントゥーラ・ルペルティ教授に贈られました。

2020年429日、日本政府は令和23年春の外国人叙勲を発表しました。イタリアの「旭日中綬章」はボナヴェントゥーラ・ルペルティ教授に贈られました。

ボナヴェントゥーラ・ルペルティ教授はヴェネツィア・カフォスカリ大学のアジア北アフリカ研究学部の教授です。日本政府が旭日中綬章をルペルティ教授に贈った理由は、伊日関係の強化や学術交流の促進への貢献です。

2020年にルペルティ教授の表彰が決まっていましたが、新型コロナウイルス流行のため、式典は延期されていました。そして、授与式は2021年7月14日に行われ、ヴェネツィア・カフォスカリ大学国際関係学部のファブリツィオ・マッレッラ副学長在ミラノ日本国総領事館雨宮雄治総領事も出席しました。雨宮総領事は、ついに式典を行うことができたことを喜ばしいと述べ、海外で特に日本文化の普及に関する功績を持つ市民に旭日中綬章をを贈ることの重要性を強調しました。

ルペルティ教授は1992年に東洋学の博士号を卒業した後、30年間にわたってヴェネツィアカ・フォスカリ大学で研究・教育に従事し、2000年からはカフォスカリ大学アジア北アフリカ研究学部の正教授となりました。長年にわたり、日本の文学や伝統演劇に関する研究を通して、イタリアにおける日本理解の促進に貢献しています。また、日本の演劇、舞台芸術の研究のため、早稲田大学の演劇博物館(2007年)、東京の国文学研究資料館(2004-5年)、京都の国際日本文化研究センター(日文研)(2015-16年)で研究し、早稲田大学、法政大学(能楽研)、立命館大学、神戸大学などで客員研究員や客員教授などとして日本に滞在しました。

ルペルティ教授は様々なイベントやプロジェクトにより、日本の伝統演劇の普及促進に情熱をかけ、尽力してきました。実際に多くの公演の企画・制作に携わってきました。例えば、2010年と2013年にローマで開催された「歌舞伎公演」と「杉本文楽公演」、2016年に日本イタリア国交150周年記念としてローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ヴィチェンツァで開催された「能楽公演ツアー」、そして2017年に日本バチカン外交樹立 75 周年記念として開催された「能楽公演」のの企画運営、紹介、字幕の翻訳を担当してきました。

さらに、2019年にボローニャとヴェネツィアで開催された天津流日本舞踊の舞台公演やワークショップにも関わっていました。その他、ルペルティ教授は能楽や浄瑠璃といった日本の伝統演劇の研究者として、日本文化理解への功績が認められています。

サン・ロッコ祭

ヴェネツィアで行われる大事な祭りの一つは「サン・ロッコ祭」(ロッコ聖人の祭)です。毎年、816日に行列やカトリックのミサがあります

1576年のペスト流行(レデントーレ教会の建設のきっかけとなったのと同じ疫病­*)による壊滅的な被害があり、ヴェネツィア人は疫病の収束を祈りロッコ聖人にも礼拝しました。
*詳細はこちらに:ヴェネツィアの有名な「レデントーレ祭り」  


疫病収束の後、この祭りは重要にものとなりました。同年(1576年)8月16日には、ヴェネツィア共和国上院からロッコ聖人記念として定められ、この祭りには当時のドージェ(*)も参加しました。ドージェは上院のメンバー、貴族の人たち、様々な大使と一緒にサン・ロッコ教会に行き、ミサの後に教会からサン・ロッコ広場を横切って、スクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ(大同信組合)の本部が入っている建物まで行列をしました。
(*) 翻訳者注:ドージェはイタリア語でのヴェネツィア共和国の元首

そして、そこでスクオーラ・グランデが保管している宝物を鑑賞し、ロッコ聖人の聖遺物を崇拝しました。スクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコは1478年に生まれた信徒の集団です。裕福な人々が集まるこの集団はロッコ聖人を讃え、サン・ロッコ教会建設後の16世紀の初期には、他の建物の建設も依頼しました。スクオーラ・グランデがほぼ完成した1546年には、かの有名なティントレットによる装飾で彩られることになりました。

通常、巡礼者を厳しい日光から守るため、この祭りの数日前に、​​「ドージェのテント」と呼ばれる、大きな仮設テントが作られました。当初「ドージェのテント」は地面に置いた木製の柱で支えるだけのものでした。その後は彫刻された石のブロックやイストリア石のブロックも使われ、そこに木製の柱を入れこむようになりました。また、このイベントには色々なアーティストや画家も参加し、自分の作品を見せていました。この仮設テントの構造は非常に魅力的で、多くの画家はその絵画的な景色を描き、複写しました。その複写の中で、一番有名なのはカナレットの絵画で、現在はロンドンのナショナル・ギャラリーで見ることができます。

現在も、毎年8月16日は、ヴェネツィアの人々がロッコ聖人を讃える日です。午後5時にフラリ広場からサン・ロッコ教会まで行列が始まり、そこで厳粛なミサが行われます。同じ日の夜、サン・ロッコのスクオーラ・グランデのホールでコンサートも行われ、サン・ロッコ賞の授与が行われれます。

 

オラトリオ・ディ・クロチフェリ聖堂 知られざるパルマ・イル・ジョーヴァネの絵画を隠し持つ宝箱

知られざるパルマ・イル・ジョーヴァネの絵画を隠し持つ宝箱

ゼン・ホスピス、そしてそれに附属するオラトリオ・ディ・クロチフェリ聖堂は魅力的な場所です。一見するとジェズイーティ(イエズス会)広場の左側にある普通の建物に見えますが、その中にはヴェネツィアルネッサンス後期の有名な画家、ヤコポ・パルマ・イル・ジョーヴァネの一連の絵画があります。

12世紀、この湿度の高い地域にクロチフェリ修道会は病院と教会を建てました。しかし、1214年に火事で倒壊したため、さらに大きな教会を建て直しました。クロチフェリ修道会は、病人の援助、定住先の開発住みにいった郊外の埋め立て、聖戦(十字軍遠征)の時に聖地を行き来した商人、兵士、巡礼者の受け入れなどの活動により、当時、社会的に大事な役割を果たしました。

「このあたりの地域は、すべて開発するために、クロチフェリ修道会に与えられました。」と、ヴェネツィア公的支援協会文化部の担当者ラウラ・マルコミン氏が説明しています。「もともと、エルサレムに向かう巡礼者がヴェネツィアに立ち寄ったときのために、このホスピス(巡礼者のための宿泊施設)は建てられました。その後は、目的が変わって、独身女性を受け入れるために利用されたのです。当時のホスピスに典型的な2階建ての構造で、中央廊下、それに面する7つの部屋があります。小さなキッチン付きの部屋はすべてまだ残っていますよ。」

1268年、ドージェ (*) レニエル・ゼンは遺言で、イストリアにあったブドウ畑を含め、全ての資産をクロチフェリ修道会に与えました。レニエル・ゼンは、ゼン宮殿と呼ばれた隣接の建物に住み、クロチフェリ修道会と親しかったと言われています。宮殿とホスピスの間に、内部通路をを作ることにしたほどです。
(*)翻訳者注:イタリア語でのヴェネツィア共和国の元首

15世紀にわたり、ヴェネツィアに立ち寄る巡礼者は減少し、聖戦の終焉が近づくと、他のホスピスと同じく、このホスピスも変わっていき、貧しい12人の独身女性を受け入れるようになりました。16世紀に、ゼンの遺言執行に関する長い議論の後、この施設は芸術的開花により新しく再生しました。このホスピスは現在において、17世紀のヴェネツィア美術文化を概観するうえで、唯一の存在となっています。17世紀のヴェネツィアの美術文化にこのホスピスは唯一の標本にならせた美術的な急増でこのところの再生になった。この芸術的開花は、1583年と1592年の間にドージェ(パスクアレ・チコニャの要望により作成されたパルマ・イル・ジョーヴァネによる一連の絵画に見ることができます。その絵画はオラトリオ・ディ・クロチフェリ聖堂の全ての壁と小部屋の天井を覆い、クロチフェリ修道会の歴史の最も重要な出来事を描いています。「ここは、美術の専門家や愛好家にとって特別で唯一の場所です。観光客はこのように美しく、色彩鮮やかで、ほぼ完全に保存された一連の絵画を見ることを期待していないのでしょう。」

オラトリオ・デイ・クロチフェリ聖堂は1966年11月4日の洪水による被害で、20年間閉館を余儀なくされていましたが、長い期間にわたる細心の修復のおかげで1984年10月に再度公開されるに至りました。

隠されたヴェネツィアの宝石: スカラ・コンタリーニ・デル・ボヴォロ

それを見たいと思ったら、それを探さなければならない。見つけた後はいつも驚きの表現が出る。ヴェネツィアの方言で「螺旋階段」という意味を持つ「スカラ・デル・ボヴォロ」は狭い通りの中に「引っ掛かかる」ように位置している。そのインパクトは息を吞むほどで、ヴェネツィアで人々に愛される場所の一つである。

コンタリーニ・デル・ボヴォロ宮殿の由来は14世紀で、建物の裏には運河がある。元々はヴェネツィア方言で保管場所を意味する「フォンテゴの家」として建てられたとエドアルド・リッゾィが説明する。

15世紀の終わり、ピエトロ・コンタリーニはこのような優美な階段を持つことを強く望んでいた。彼はサン・パテルニアンの分家で、力の強いコンタリーニ家の子孫だった。14世紀に同じ分家に属したアンドレア・コンタリーニがヴェネツィア共和国「セレニッシマ」のドージェ(*)だった。
(*) 翻訳者注:ドージェとは イタリア語でのヴェネツィア共和国の元首

リッゾィは、こう続けた。「ピエトロ・コンタリーニは、ヴェネツィアにひとつしかないものが欲しかった。だから、このような階段を強く望んでいた。当時、ヴェネツィア共和国では、政治的な平等を維持するために、貴族たちは華美な物を作ることが禁止されていた。それにもかかわらず、コンタリーニ家は、ルネッサンスとビザンチンの影響を残すこの螺旋階段を作ることができた。」

この階段の建築はとても優美で、ヴェネツィア人は非常に驚いた。そして「ボヴォロ」という名はコンタリーニ家を指すほどになったのである。

5世紀間にわたるこの宮殿の歴史の中で、不思議な事が多くある。例えば、装飾で彩られていたのは建物の正面ではなく、裏側であった。なぜ不思議なのかというと、その当時、貴族は自らの宮殿の正面を豪華に表現する習慣があったからである。しかし、コンタリーニ宮殿の正面はリオ・サン・ルーカに面している。政治の中心であったサン・マルコ広場を見下ろす方向のほうが、更に大事であるはずなのに、それは宮殿の裏側にあたるのであった。螺旋階段を作り上げるために、この装飾は、螺旋階段を建設するために犠牲となり、消されてしまったのだが、今でも壁に小さな跡をみることができる。

その他、ヴェネツィアの素晴らしい景色を眺めることができる丸屋根の楼もある。そこで、ドイツの天文学者のテンペルが、初めてC/1859という彗星やプレアデス星団のメロぺ星雲を発見した

前世紀においては、「マルタ人」と呼ばれたアルノー・マルセイユが、この宮殿を「ロカンダ・デラ・スカラ」(翻訳者注:イタリア語ではしごの宿屋)という宿屋にし、実際に現在、宮殿がある通りは同じ名前で呼ばれている。

1849年のドメニコ・エメリの遺言によって、この遺産は教会の貧しい人々を支援した「サン・ルカの貧しい人」という共同体に譲渡された。その時から、この建物はヴェネツィアの公的支援機関であるIPAVと緊密な関係を持つようになり、現在「スカラ・デル・ボヴォロ」はヴェネツィア自治体と共にIPAVが所有している。

ヴェネツィアにある仮設の橋

ヴェネツィアでは1577年から毎年、仮設の通路が運河の上にかけられます。有名な祭りのシンボルであるレデントーレ教会に、人々が徒歩で行けるようにするためです。 レデントーレ教会に行くために、ジュデッカの運河を徒歩で渡ることが出来るこの橋の通路は、16世紀からヴェネツィア人にとって、現在も宗教的にも、そして社会的にも大事な価値を持っています。

この通路の構造は、長い間に様々な変化を遂げてきましたが、最も重要な機能は決して変わりませんでした。即ち、疫病から同じように損害を受けたヴェネツィアの二つの場所を繋げる「浮かぶ」きずなであるということです。

橋の進化:440年以上も続く伝統の更新

1577年に最初に造られた橋は本当の橋ではなく、ザッテレ地区(ヴェネツィア本島)から、レデントーレ教会の建設が始まったザッテレ地区の反対側(すなわちジュデッカ島)に行くために、いくつもの船を並べてつくられた橋でした。その最初の船の橋は、2年間の疫病の終息を祝うために、ジュデッカ島へ行列、練り歩きができるように、ヴェネツィア人が造ったもので、444年後もレデントーレ祭で欠かせないものなのです。

この仮設の橋の構造は、長年にわたり変わってきました。かつては船を並べたものでしたが、その後、木製と鋼の柱を組み立てたもので造られたイギリスの「ベイリー橋」というものになりました。「ベイリー橋」は第二次世界大戦後に連合国から放棄され、イタリア軍によって買収されました。その買収から50年間、レデントーレ祭の際に軍事演習としてジュデッカ運河上に組み立てられました。

その橋が「戦争遺跡」と指定された2002年から、橋は現在の「浮かぶ」タイプに変更されました。新しい橋を造るのは、インスラという会社が担当することになりました。この会社は、同じ2002年に、古い橋の代わりとして、より柔軟な素材でつくる新しい橋を提案し、これは革新的で機能的な新しい橋のバージョンとして市議会から受け入れられました。現在もこの仮設の橋は、同じ会社によって組み立てられています。

 

船で造った橋: レデントーレ祭の時だけではないヴェネツィアの伝統

このタイプの橋はレデントーレ祭の時だけではなく、他の祭りの際にも使われています。実際に、毎年の11月21日「マドンナ・デラ・サルーテ祭」の際にも、参拝者や市民が行列、練り歩きをしてカナル・グランデを渡るために、この仮設の橋は組み立てられます。

その他、「ヴェネツィア・マラソン」の際も数年前から、この浮かぶ構造を使って170メートルの橋が造られています。これにより、マラソンの走者がカナル・グランデを渡って、サン・マルコ広場に着くことができます。

市民がヴェネツィアの運河を渡るために造られてきた船の橋は、伝統的には欄干(らんかん・橋のてすりの部分)がなく、船を並べただけの構造でした。しかし、安全性が低い構造で、19世紀にいくつかの死亡事故が発生したため、この橋の作り方を変えることに決まりました。

この橋が造られるその他の機会は、万霊祭(イタリアに11月2日)の時です。その際に、この橋のお陰で、市民がフォンダメンタ・ノーヴェ(ヴェネツィア本島)からサン・ミケーレ島にある墓地に行くことが出来ます。2019年にもヴェネツィア市はこの祭りを開催することを強く望みましたが、この伝統は去年の新型コロナウイルスの影響で中止されてしまいました。

 

ヴェネツィアの有名な「レデントーレ祭り」

「レデントーレ」という祭りはヴェネツィア人にとって一番大事なものです。

この祭りの由来は1577年です。わずか2年間にひどい疫病のせいでヴェネツィアの人口の3分の1以上、すなわち5万人が死亡しました。その疫病の終息への感謝のしるしとして、この祭りを行います。

疫病流行中の1576年9月4日、ヴェネツィアの上院議会は永遠に街を疫病から解放するための誓いと祈りとして、ジュデッカ島にあったフランシスコ修道院の近くに、新しい大規模な教会の建設を決定しました。その教会の建設は当時の偉大な建築家の一人であったアンドレア・パラーディオに託され、救世主のキリスト(イタリア語でキリスト・レデントーレ)に捧げられました。1592年にアンドレア・パラーディオはレデントーレ大聖堂を設計し、現在もジュデッカ島に建っています。

初めてこの祭りが行なわれた1577年から現在まで、毎年7月の第3土曜日に、ザッテレ地区(ヴェネツィア本島)とジュデッカ島を繋げる仮設の橋が架けられ、土曜日の間は参拝者はレデントーレ大聖堂に徒歩でも行くことができます。過去には、この仮設の橋は、いくつもの船を並べてつくられていましたが、現在は木製の柱を組み立てたものが使われています。

その他、宗教的な面とともに、レデントーレ祭りの伝統的な面もあります。すなわち、ヴェネツィア人は土曜日の夜、デコレーションをした船で伝統的な料理を食べながら、サン・マルコ湾に打ちあげられる華麗な花火を楽しみます。ヴェネツィア建国から1600周年の今年は、花火もその記念をテーマとし、色だけでなく、花火の形も特別なもになります。

今回はコロナウイルスで厳重な制限がありますが、5世紀間も、この祭りの過ごし方はそのまま変わらずに続いています。

日曜日はレデントーレのレガッタのための日です。レデントーレの翌週の日曜日の午後にジュデッカ側の運河で、ゴンドラも含むヴェネツィアの伝統的なボートが競技を行い、多くのチャンピオンが参加します。

ヴェネツィア共和国「セレニッシマ」の伝統お菓子は日本へ

2021年6月15日、ヴェネツィア  

日出ずる国、すなわち日本まで続く道は、卵、牛乳、小麦粉、バターの匂いがする。ヴェネツィアから日本へ、何世紀もの伝統を経て。ヴェネツィアが世界中で愛されていることは事実だ。しかし、その代表的なスイーツが評価され、小樽にヴェネツィアの名前を付けた洋菓子店が誕生したのは面白い話なのである。

その話は師匠フランコ・コルッシにとって普通なことだ。現在86歳のフランコ・コルッシさんは、「ノノ」(ヴェネツィア方言でおじいちゃん)という愛称で呼ばれ、毎朝、アカデミアの橋や有名な「ポンテ・デイ・プニ」のすぐ近くにあるドルソドゥーロ地区の厨房で、「セレニッシマ」(ヴェネツィア共和国)の伝統的なお菓子を手作りしている。あの時と同じように、今日も。

フランコさんは、日本語が書かれたパティシエの帽子を誇らしげにかぶっている。2013年に小樽でヴェネツィアの伝統的なお菓子の専門店をオープンした緒方フランチェスカ江里さんのことを思い出して微笑む。

「彼女はたぶん、先生の助けを借りながらイタリア語で手紙を書きました。私の仕事を手伝いたいと書いた手紙が何通も厨房に届いていたんですが、私は一度も返事をしませんでした。ある時、私はうんざりして、厨房が小さすぎてスペースがないと答えたんです。彼女はどうしてもと言って、外から見てもいいかと聞いてきたので、ついに私はOKと言いました。」

「彼女は毎日5時になると、ルンガ・サン・バルナバ通りにある店のドアの外に現れました。最初の日、彼女は外で4時間ほど立っていましたが、妻が中に入れてあげようと言ったので、中に入れて隅に座らせたんです。彼女は私の手の動きまですべてをメモしていました」と懐かしそうにフランコさんが語っている。「なぜ写真を撮らないのか」と聞くと、撮ってもいいかわからなかったからと彼女は答えました。その後は、2台のカメラを持ってきて、すべてを撮影しましたね。彼女は「わたしたちのクッキー」を作る方法を学び、「カフェ旅情&Frances'Ca」というヴェネツィアの洋菓子店をオープンしたんです。今でも連絡を取り合っていて、私も日本に行ったことがありますが、彼女は本当に素晴らしい女性ですよ。フォカッチャも作っているのは知っているが、まだ食べたことはないんです」。

 

緒方フランチェスカ江里さんがフランコ・コルッシ菓子店に初めて入ったのは、サッカー選手の中田英寿がペルージャに入団したことで興味を持ち、2003年にイタリアに観光旅行をした際だった。

「事前に【暮らすように旅するイタリア】という本に、師匠フランコの店が掲載されていたのがきっかけです。旅行のテーマを【伝統地方菓子】に決めて、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマの伝統菓子を食べ歩ていました。

それぞれの街で、美味しい伝統菓子に出会ったが、日本に帰ってから、もう一度食べたいと、思ったのは、師匠フランコの【フガッサ】でした。日に日にフガッサへの想いが高まり、「学びたい!」と強く感じ始めて、覚悟を決めて、依頼の手紙を書くことにしました。何通か書いたところで、返事を頂きました。内容は、手紙への感謝。そして、ヴェネツィアに来てもらっても、厨房にいれることや教えることはできないという丁寧な詫び状でした。

私は師匠フランコにとっては会った記憶もない異国の人間だから、断りは当然でしょう。しかし、私は諦める事が出来ず、ヴェネツィアに行ってお願いするしかないと、手紙を書き続けながら、ヴェネツィアに行く方法を模索しました。」とのことだった。

緒方フランチェスカ江里さんは、予算が少なく、観光ビザで3カ月の滞在という状況の中で、強情に冒険を始めた。「小樽は私の故郷であるとともに北に位置し、発酵菓子作りに適しています。また、小麦、乳製品は日本一のクオリティなのです。また、小樽はヴェネツィアと姉妹都市ではないが、硝子工芸が盛んで、小さな運河もあり、なんと言ってもヴェネツィア美術館があります。だから、北海道、そして小樽で店をオープンさせた経緯があります。」と、緒方さんは語る。

 

師匠フランコ・コルッシの厨房

厨房を覆う香りは、ネズミにとっての魔法の笛のようなものだ。ルンガ・サン・バルナバ通りを歩き始めた途端に、間違いなく、五感が活性化され、鼻が跡を追うようになる。生き生きとした青い目、優しさ、そしてまるで自分の家にいるように感じさせる力を持っているフランコさんは、そこにいる。

中には、コルッシ家の3世代を代表する3人がいる。1956年に厨房を開設したフランコさん、娘のリンダさん、そして孫娘のマリーナさんだ。マリーナさんは、高校を卒業した後、29歳から祖父のそばで10年間働き、今ではヴェネツィアのお菓子作りの秘密をすべて知っている。

 

「学校の帰りに遊園地みたいな遊び場だと思って厨房に来ていたのかと思っていたら、実はその後家に帰ってちゃんと宿題をしていたんですね」と笑顔で話していた。「10年前、バルバリゴ学校でパティスリーを教えていたから、知らず知らずのうちに彼女にパティスリーへの愛情を2・3回注入していたんですよ。そして、ある日の誕生日、彼女はただのプレゼントではなく、プラネタリーミキサーを欲しいと言ったんですよ」と話す。

フランコさんが話している間、細長い生地を手で切るのをやめない。そのパンから、おそらく最も有名で最も広く輸出されているビスケット、バイコーリが作られている。

「わたしたちはサワードウ酵母(*)を使ってバイコリーを作っています。これはリエビト・ディ・ビラ(翻訳者注:イタリアによく使われているイーストの一種)が発明される前にやっていたのと同じ方法です。そして、手で切るやり方をずっとしています」と語る。

(*)翻訳者注:サワードウ酵母は近年、食品技術の進歩やビール酵母の入手が可能になったことで、サワードウの使用は大幅に減少しました。しかし、サワードウ酵母はより実用的なビール酵母とは異なる香り、味、食感を与えることから、最近になって特にイタリアの食品業界で一定の重要性を取り戻しています。(MyPersonalTrainerよりLievito Madre

「バイコーリを作るためには、ヴェネチアのフォカッチャ「フガッサ」を作るのと同じように、30時間かかります。でも、ただ練って放置するだけではなく、3時間ごとに見てあげたり、甘やかしてあげたりしなければならないんです。」

酵母は非常に古いもので、どのくらい古いかは確定できないが、フランコさんがムラーノの「ボニファシオ」でパティシエとして働いていたときに使っていたものと同じものである。昔の師匠から商売を始めるときにプレゼントされた小品なので、年齢をつけるのはとても難しい。

 

ヴェネツィアの伝統的なお菓子

コルッシ菓子店はフランコさんが言うように「古いもの」を専門としている。数は非常に少ないが、ヴェネツィアの伝統的な製品のみを作っている。

ここでは、ザレッティ、ムラーノのブッソラフォルテ、サヴォイアルディ、ブラネリ、アマレッティ、ペヴァリーニ、さらにはバイコーリ、フォカッチャ、小さなスプミグリなどを見つけることができる。フランコさんの説明によると、昔はそのお菓子はキプロスワイン(リキュールワイン)やクリームに漬けていたので、どれも乾いたスイーツなのである。

ヴェネツィアの菓子職人は古くから評判だ。1493年には、彼らは「スカラテリ」という団体としてまとまり、独自のマリエゴレ(法令)を持つようになった。名前の由来には2つの説がある。ひとつは典型的なスイーツで、生地が重なり合ってはしご(イタリア語でスカラ)のようになっていたからというものである。もうひとつはオーブンの高さが今とは違っていて、穴が開いており、外に出るには飛び降りなければならなかったため、ある時点ではしごを穴に差し込んだから、という説である。

 

ヴェネツィアの「フガッサ」

デザートで言えば、ヴェネツィアはフォカッチャが世界的に有名である。フォカッチャはパネトーネやパンドーロとは違い、柔らかく、フランコさんが言うように、まるで食べていないかのような感覚になる。また、この生地のおかげで数日はそのままの状態で保存できる。「でも、日持ちしないんですよ。信じてください、食べ始めるとすぐに食べ終わってしまうんです」と彼は微笑む。

フランコさんが説明するように、量の問題ではない。なぜなら、量は世界中のすべての本に書かれているし、インターネットにも書かれている。

「投与量は音楽の楽譜のようなものです。バッハでもショパンでもベートーベンでも、楽譜を見て演奏していたが、多くの人は音と音の間にある空間が音楽であることを知らない。詩と同じことですよ。句読点がない状態で読むと価値がない。もっと身近な例で考えてみましょう。ひとつの毛糸玉とと2本の編み針、10本の縦の縫い目と10本の横の縫い目。私にはあるものができあがり、彼女にはまた別のものができあがります。また、音楽に話を戻すと、楽譜とバイオリンを手に入れても、ウート・ウーギやパガニーニのようには弾けはしないですよ。」と語る。

日本にある「カフェ旅情&Frances'Ca」 でもお客様から一番愛されているイタリアのお菓子はフガッサである。「皆さん、フォカッチャ・ヴェネツィアーナではなく、フガッサを愛しています。このお菓子を覚えるために、10年ヴェネツィアに通ったので、一番情熱を込めて作っています。師匠フランコの格言をいつも胸に。」

 

ヴェネツィアの「フリッテッレ」

フリッテッレは、ヴェネツィア人の最も人気のあるデザートだった。今ではカーニバルの時にしか食べられないが、かつては歓談の場でも作られていた。「結婚式や婚約、誰かが訪ねてきたときなど、フリッテッレは良いことの証であり、パーティーのクライマックスだったそうです。そして、ボールの形のフリッテレの方が伝統的なものだと思われていますが、ヴェネツィアのフリテッラには穴があるものなのです。」とのこと。現在、フリッテッレは地元でも全国的にも愛されているが、海外ではフォカッチャに人気を追い越されている。

 

師匠フランコからの秘訣

「美味しいケーキを作る秘訣は、自分が好きになることですよ。パティシエになってから75年になるが、いまだにケーキを食べ続けていますからね。」と師匠フランコは結論づけている。「何にでもちょっと吐き気を感じるようになった私ですら好きなんだから、きっとお客さんも好きだということですよね。そして、美味しくなるためには、しつこくてはダメで、軽いものでなければならないんです」。